カープ初優勝時の監督を務めた古葉竹識氏が11月12日に死去した。85歳だった。

 ここでは球界に偉大な功績を残した古葉氏を偲んで、過去「広島アスリートマガジン」で掲載された記事を振り返っていく。今回は2009年当時、東京国際大監督時代の古葉氏のインタビューをお送りする。

カープ監督を11年間務めた古葉竹識氏。チームを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。写真は東京国際大監督時代。

◆71歳で受けた監督要請に断る理由などなかった

 埼玉県坂戸市にある東京国際大学・坂戸総合グラウンド。この完成したばかりの野球場では、東京新大学野球秋季リーグの優勝を目指して選手たちが汗を流している。そんな選手たちに厳しくも温かい眼差しを向けるのが、1975年にカープを初優勝に導いた古葉竹識、その人だ。

 1989年に大洋(現DeNA)の監督を退いてからも評論家として野球に携わり、1999年には野球殿堂入り。そしてマスターズリーグの札幌アンビシャスの監督、少年野球国際交流協会理事長を務めるなど、長きに渡り野球界の発展のために尽力し続けている。

「野球は私の人生そのものだと思っています。野球はお互いが協力しなければいけないですし、自分ひとりでは何もできない。スタッフがいて、選手たちがいてお互いが相手のことを考えていい野球ができる。野球から生きていく上で大切ないろんなことを教えてもらいました」

 また、野球界に止まらず政界進出を目指し、2003年には広島市長選、翌2004年には参議院議員選挙に出馬するなど、ユニフォームを脱いでも精力的だ。

 年齢を感じさせないほど気力に満ちた古葉にとって、2007年に届いた東京国際大監督要請に首を縦に振らない理由などなかった。

「最初はチーム強化の相談だけだと思っていたら、そうではなくて何とか(監督を)やってくれないかという打診だったのでビックリしました。ただ、やっぱり野球が好きなのでね。新しいことをするにはパワーがいりますが、同世代の野村さん(克也)も監督をやっていますし、現場に立てる体があるのならと引き受けました。私は大学を卒業せずに社会人野球へ行ったので、もう一度勉強できるかなという思いもありました」

 マスターズリーグの監督がプロの活動と見なされたため、監督就任は2年後の2008年4月に先送りとなったものの、久しぶりに『監督』となった古葉の瞳は1970年代のあのときと同じ輝きを放っていた。

 とはいえ、20年ぶりの現場復帰で相手にするのは、プロではなくアマチュア。さらには孫ほど歳の離れた大学生だ。

「大学生は勉強をしながら野球をやっていますが、生徒たちには社会人でも野球がやりたい、プロでやりたいといった目標を少しでも持てるようにこれまでの経験を還元していきたいと思っています」

 その言葉通り、今年(2009年当時)73歳となる古葉がグラウンドを所狭しと動き回り、選手たちを手取り足取り熱心に指導している。助監督を務める三男の隆明氏は、そんな父の姿を見ながら苦笑いを浮かべる。

「僕はあまり動かない方がいいと思っているんですけどね。それでも精力的に動いて生徒に指導しているんですよ。そんな姿を見ると、子どもの頃に(旧)広島市民球場で見た父の姿を思い出します」

 山本浩二や衣笠祥雄など個性が強い選手たちをまとめていた熱き熱血漢は今も変わらない。