『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

1番を背負い、2012年と2013年のリーグ連覇に大きく貢献した西川周作。

◆プロ草創期のサンフレッチェの守備を支える存在

 サッカーの背番号『1』は、GKがつけるのが一般的だ。1993年のJリーグ開幕当初、試合ごとに登録メンバー16人が『1』から『16』の背番号をつけた(先発の11人が『1』から『11』、控えの5人が『12』から『16』)時代から、シーズンごとに各選手が個別の背番号をつけるようになった1997年以降の現在まで、サンフレッチェでも歴代の名GKが背負ってきている。

 1993年5月16日、サンフレッチェのJリーグ開幕戦で背番号1をつけたのは、前川和也。まだ日本サッカー界がプロ化していなかった1986年、平戸高(長崎)から前身のマツダSCに加入し、Jリーグ開幕当初は正GKとして活躍した。1997年からも3年間、1番をつけている。

 日本代表にも選出され、1992年に広島県で開催されたアジアカップでは控えながら、準決勝の試合途中に正GKが退場となったため、交代出場。何でもないシュートを後逸するミスで失点してしまうが、勝ち上がった決勝ではフル出場して、1-0での勝利と初優勝に貢献した。

 188センチの長身ながら動きは俊敏で、鋭いシュートストップやハイボール処理の安定感が持ち味。足でボールを扱うプレーはお世辞にもうまいとはいえず、キックも苦手だったものの、プロ草創期のサンフレッチェの守備を支える存在だった。

 ちなみに、1994年に広島市で誕生した息子の黛也(だいや)は、広島皆実高−関西大を経て、2017年からヴィッセル神戸で背番号1を背負っている。今年3月には日本代表に初選出され(出場はなし)、1993年以降では初めて、親子二代での日本代表選出となった。

◆1999年のブラジル戦ではスタメンでA代表デビュー

 前川が大分トリニータに移籍した2000年、下田崇が1番を受け継いだ。16番をつけていた1998年から正GKを任されており、周囲も当然と感じる背番号の変更だった。

 広島市出身で、本格的にGKを始めたのは広島皆実高1年のときだったが、急速な成長ぶりが評価され、卒業後の1994年にサンフレッチェに加入した。1995年、アウェイでの浦和レッズ戦でJリーグデビュー。会場は、現在は大宮アルディージャの本拠地となっている大宮サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)だった。

 この試合、筆者は会場で取材していた。先発でプレーしていた河野和正が負傷したため、急きょ交代で出場。プロ最初のプレーはFKだったが、前に蹴り出したボールは大きく横にそれて、タッチラインを割ってしまう。緊張を隠せなかったが、1998年に正GKとなってからはどんどん風格が増し、正確なキャッチングやセービングなど、ミスの少ないプレーで守備を支えた。

 1994年のU-19日本代表から始まり、年代別代表にも選出。1996年にはU-23日本代表の一員としてアトランタ五輪に参加した。1999年のブラジル戦ではスタメンでA代表デビューも飾っているが、当時は川口能活が正GKだったため、下田の先発は大きなサプライズ。筆者はこの試合も現地で取材していたが、下田先発を全く予想していなかった地上波で生中継するテレビ局のスタッフが、慌てた様子で筆者に「何でもいいから下田の情報を教えて!」と駆け寄ってきたほどだった。

◆正GKとしてリーグ連覇に大きく貢献

 2010年まで11年間、1番を背負った下田は同年限りで現役を引退し、翌年からサンフレッチェのトップチームGKコーチとして、多くの選手を指導する。教え子の一人で、下田と入れ替わりで1番を受け継いだのは、2010年に大分トリニータから加入し、21番をつけていた西川周作だった。

 2005年に大分トリニータU-18からトップチームに昇格。同年途中にJリーグデビューを果たすと、その試合でGKながら直接FKでゴールを狙い、大きな話題となった。これが示すように正確なキックや足技が持ち味の一つで、高卒1年目から経験を重ねていった。

 広島加入後も1年目から正GKとして活躍し、2011年までのペトロヴィッチ監督時代、2012年からの森保一監督時代とも定位置を譲ることはなかった。2012年と2013年にはJリーグ連覇に大きく貢献し、クラブの歴史の名を残している。

◆34試合で30失点というリーグ最強の堅守に貢献

 西川が浦和レッズに移籍した2014年からは、林卓人が背番号1を背負っている。この年、10年ぶりにサンフレッチェに復帰した。

 2001年に金光大阪高からサンフレッチェに加入。2年目のリーグ最終節、アウェイでのコンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)戦で、負傷した下田に代わって交代出場でJリーグデビューを果たした。筆者はこのときも会場の札幌ドームで取材していたが、試合は延長の末に敗れ、初のJ2降格が決まっている。

 4年間プレーしたが定位置をつかめず、2005年に札幌に完全移籍。2007年途中にベガルタ仙台に期限付き移籍、のちに完全移籍して正GKとして活躍する。2014年、西川の移籍に伴って正GKを探していたサンフレッチェがオファーを出し、復帰することになった。

 正確なキャッチングや鋭い反応などの持ち味は、広島を離れた後の経験で磨きがかかっていた。2015年はリーグ戦34試合で30失点というリーグ最強の堅守に貢献し、チャンピオンシップ(CS)を制して3回目の優勝に貢献する。エディオンスタジアム広島で行われたガンバ大阪とのCS決勝第2戦、林がシュートをがっちりキャッチした次の瞬間、優勝を告げる主審のホイッスル。林はそのままスタンドに向けて大きくボールを蹴り出し、自身初の優勝の喜びを爆発させた。

 その後は負傷離脱や、大迫敬介の台頭によって出場機会が減った時期もあるが、そのつど定位置を奪回し、今季も終盤は正GKに君臨した。9月の札幌戦でJリーグ通算500試合出場、10月3日の名古屋グランパス戦ではJ1通算100完封を達成。8月で39歳となったとは思えない、衰え知らずのプレーを続けている。