「今の監督はどうしたんですか? 仏様みたいです」

広島新庄監督時代の迫田守昭氏(左から2番目)。同校を春夏4回の甲子園出場に導いた。

 迫田守昭が広島新庄の監督に就任してから2年弱。広島商業(以下、広商)監督時代の教え子である宇多村聡(現・広島新庄監督)を広島新庄のコーチとして迎え入れたが、あまりの変化に驚かれたという。

 強豪としての下地がなく、大学進学にも力を入れている学校で、全体の練習時間は放課後の2時間ほど。部員も迫田が就任した2007年秋には2年生以下が17人しかいなかった。そこで指導方針を広商時代と180度転換させた。

「進学校でしたので、広商の時とは指導法も考え方も変えてやる必要があると思いました。広商と違って当時の広島新庄の場合は“自分の趣味や勉強とともに野球も頑張りたい”という子が来るので、同じような指導ではいけないと思っていました」

「土日に試合がない日の半日は勉強をさせました。午前中に練習する班であれば午後に勉強、午後から練習する班は午前中に勉強という形です。また、練習の人数を半分にすることで効率よく練習もできます」

「プレーでは当然怒ることはありますが、私生活のことでは広商の時のように怒ることはほとんどありませんでした。とにかく選手を自由にのびのびとやらせていました。褒めれば伸びる、伸びれば褒めるの繰り返しで、褒めて褒めてという感じでしたね」

 それでもすぐに結果を出す。就任してから3年連続で中国大会に進出。何度も甲子園にもあと一歩まで迫った。「たまたま選手が良かったんです。六信慎吾(法政大→西濃運輸元投手)という非常に力のある投手もいましたからね」と謙遜するが、当然迫田の指導力も大きいのは間違いない。

 当時のOBが「3年間で一度やるかどうかという作戦の練習もしていました」とも振り返るように、時間が限られている中でも細かく野球を教え込んだ。

「必ず30分は、けん制、バント、キャッチャーのセカンド送球、ランナーのスチール、ワンバウンドでのスチールの練習をしていました。誰でもできるけれど普段から注意して考え方を持っていないとできないプレーが大事だと思います。特に、ピッチャーのけん制と、キャッチャーのセカンド送球、ランナーのスチールがそれにあたります」

 だが甲子園出場まではなかなか届かなかった。特に夏の県大会は苦戦を強いられた。時には広商が、時には兄・穆成が率いる如水館が立ちはだかった。左腕・田口麗斗(ヤクルト)がエースだった2012年秋、2013年の春と夏は瀬戸内の山岡泰輔(オリックス)が立ちはだかって3連敗。特に夏は延長再試合にまでもつれ込んだが勝てず「山岡くんは技術的にもさることながら、ハートが素晴らしい選手」と今も感服している。

 しかし、その次の秋に県大会、中国大会で勝ち星を重ねて広島新庄として初の甲子園出場を掴むことになる。

「負けた試合には必ずプラスがついてくるんです。負けるともちろんがっかりしますが、それは次の世代への土産になります。だから、力がほとんど変わらなければ、私は若い学年の選手をベンチに入れます。試合に出なくても経験をすることで、実力的にも心構え的にも数段変わりますから」

 甲子園では左腕・山岡就也(ENEOS)の完封で甲子園初勝利を挙げるなど歴史をさらに刻み、桐生第一との2回戦は延長再試合となる激闘になって敗れはしたものの高校野球ファンの記憶にも「広島新庄」は深く刻まれた。

 さらに2015年と2016年には、左腕・堀瑞輝(日本ハム)を擁して夏の甲子園に2年連続で出場。2015年の早稲田実戦では意表を突くダブルスチールを見せ、2016年は堀の3試合30イニング、自責点4の好投で16強入りを果たした。

 こうして迫田守昭は「左腕育成の名手」と「策士」のイメージがより強く出来上がっていく。次回はその背景や要因について探っていく。(最終回につづく)

●迫田守昭(さこた・もりあき)1945年9月24日生まれ。現役時代は広島商業-慶應大-三菱重工広島で捕手としてプレー。その後、三菱重工広島の監督に就任し、1979年都市対抗で初出場初優勝を果たす。2000年に母校である広島商業の監督に就任し、2002年春、2004年夏に甲子園出場。2007年に広島新庄の監督に就任すると、春2回、夏2回甲子園出場に導くなど、13年間指揮した。2020年3月に監督退任。2022年4月より、市立福山の監督に就任予定。