甲子園を目指し、仲間と白球を追いかけた高校時代。そこで培った経験は、球児たちのその後の人生にも大きな影響を与えた。

 プロに進んだ選手、社会人野球の道を選んだ選手……。ここでは、それぞれの道に進んだ元・球児たちが、高校3年間を振り返る。

 ここでは、2007年夏の甲子園・決勝戦での広陵に魅了され、地元を離れ広島の地へ踏み込んだ池田侑矢(伯和ビクトリーズ硬式野球部)が登場する。野球を追い求める27歳は、“縁”を感じながら、今もなお広島で成長を続ける。

広陵時代、野球へのひたむきな姿勢が評価され、強豪校のベンチ入りのチャンスを掴んだ池田選手。

◆力をもらった涙と声援、忘れられない応援スタンド

 僕の母は広島県出身で、叔父は広陵の野球部に所属していたと小さな頃から聞いていたので広陵に興味がありました。そして2007年の佐賀北との決勝戦をアルプススタンドで実際に見て、『僕もここで野球がしたい』という思いが強くなり入学を決めました。

 入部すると、テレビで見ていた選手が間近にいて『この人たちが先輩になるんだ……』と感動しました。当時は有原航平さん(レンジャーズ)や、福田周平さん(オリックス)が最上学年で活躍されていました。

 初めての寮生活では、上下関係はもちろん、僕は体の線が細かったので食事が一番辛かったですね(笑)。

 初めて試合に出場させてもらえたのは、2年秋の新チームになる前で、先輩が僕のことを中井(哲之)監督に『アイツは練習も頑張っているし、一度を見てあげてください』と推薦してくださったんです。その秋に初めてベンチ入りをすることができました。

 高校最後の3年夏の県予選では、絶対絶命の9回の場面で途中出場しました。その瞬間、広陵側の応援スタンドを見たら、みんなが泣いて大声援を送ってくれていたんです。ベンチも泣いていて、“これはなんとかしないと”とグッと力が入りました。

 相手バッテリーのパスボールの間に振り逃げし、二塁ベースまで辿り着いたのですが、あの時のスタンドの景色は一生忘れられません。

 中井監督からは、野球の技術についてというよりも人としてのあるべき姿を最後まで教えていただきました。

 最後の試合が終わった後、『お前らは俺の教え子じゃけぇ、困ったときはいつでも帰ってきてええぞ』と言われて、純粋にかっこいいなと思いましたね。

 広陵時代の同期には佐野恵太(DeNA)がいて、今でも連絡を取り合っています。彼の活躍は気になりますし、お互いに良い刺激を送り合えていると思います。

 高校最後の広島商業との定期戦で、僕はランナー一塁、バッターは佐野という場面がありました。佐野がライト前安打を打って、僕は三塁まで走ってヘッドスライディングをしたのですが、三塁手の膝が顔面に当たり意識がなくなったんです。気づいたら病院だったのですが、運ばれる時に、意識のない僕にみんなが「大丈夫か?」と言っていたようですが、反応しなかったそうです。

 ただ、中井監督が「おい!」と言ったらビクッと動いたみたいで(笑)。中井監督の時だけ反応していて、今ではみんなの笑い話です。

=後編へ続く=

池田侑矢◎1994年8月31日、兵庫県出身
2010年に広陵高入学。同学年の佐野恵太(DeNA)と共にプレーし、2学年上には、有原航平(テキサス・レンジャーズ)、福田周平(オリックス)がいる。
広陵卒業後は大阪商業大に進学し1年春からベンチ入りして明治神宮大会へも出場。大学を卒業後は、広島の社会人野球チーム、伯和ビクトリーズに所属し、現在はチームのマネージャーも兼務しながら選手としてチームをけん引する。