広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。ここでは、2021編集部セレクションとして、昨年特に反響の多かった記事を振り返る。

 今回は、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る企画。赤ヘル野球の体現者や、剛腕リリーバーも背負った「23」を取り上げる。(2021年6月16日掲載記事を一部編集)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2017年には15勝をあげ、最多勝のタイトルを獲得した薮田和樹。

 山崎隆造は崇徳高校で2度甲子園に出場。特に1976年春には優勝も経験している。同年のドラフトでは目玉扱いを受け、カープの1位指名で入団。高校時代はショートで活躍したが、高橋慶彦の存在がありセカンドに。年を追うごとに試合数も増え、だんだんと頭角を現していった。

 だが4年目の1981年には思わぬアクシデントに見舞われた。3月、オープン戦での守備でフェンスに激突、右ヒザ骨折の重傷を負ったのだ。膝蓋骨はバラバラに割れたといい、選手生命の危機に見舞われたが、翌年には復活。翌1983年には山本浩二に代わるセンターとしてレギュラーに定着。復活を果たすと一気に主力選手への階段を駆け上がっていった。

 本格的な活躍を見せるのは背番号「1」に変更した1983年からで、1984年から1989年までの6年間は公式戦フル出場。その前後も合わせて803試合に連続出場している。1984年には26試合連続安打もマークし、ベストナインを3回、ゴールデングラブ賞を4回受賞。前述の大ケガがあったにもかかわらず200回以上の盗塁にも成功し、まさに走攻守にわたって活躍。「赤ヘル野球」を体現した選手だった。1993年限りで現役を引退、コーチや二軍監督も務め、カープひと筋の野球人生を歩んだ。