◆球団初の2億円プレーヤーが継承

 山本の後しばらくは3~4年で持ち主が変わる時代が続いたが、それに終止符を打っただけでなく山本の最長記録を破ったのが、1989年からの野村謙二郎だ。名門・駒沢大から1988年にドラフト1位指名を受け入団すると、ルーキーイヤーは外野手として88試合に出場。1990年から内野手登録となり、前年オフにロッテに移籍した髙橋慶彦に代わりショートのレギュラーとなった。

 攻守にわたり活躍した野村はこの1990年、オールスターゲームに初選出。また33盗塁を記録し、初のタイトルも獲得した。翌1991年は全試合出場と共に、2年連続で盗塁王を獲得。170安打で最多安打(当時はタイトル未制定)もマークした。

 1994年からの7年間はキャプテンを務め、同年には3度目の盗塁王も獲得。1995年には史上6人目(当時)となるトリプルスリー(打率.315、32本塁打、30盗塁)を達成。1997年には球団初の2億円プレーヤーとなった。

 2005年限りで現役を引退した際には球団から背番号『7』の永久欠番化も打診されたが、これを固辞し、相応しい選手が現れるまでの間は永久欠番預かりとなった。2010年からは11年連続でBクラスに低迷するカープの監督に就任。2013年には1997年以来16年ぶりのAクラス入り(3位)を果たし、球団初のクライマックス・シリーズ(CS)進出を果たす。翌年もCS出場を決めたが、2014年限りで監督を辞任した。

◆7年の空白を経て背番号『7』が復活

 7年間の空白を経て“相応しい選手”として背番号『7』を復活させたのが、現在もこの番号の持ち主である堂林翔太だ。中京大中京高時代はエース兼4番でチームを牽引。3年夏には甲子園で全国優勝を果たし、2009年にドラフト2位指名を受けカープに入団。プロ3年目の2012年には、野村謙二郎監督からの期待を受けて開幕スタメンで一軍初出場を果たし、全144試合に出場した。

 この2012年には両リーグワーストの29失策、150三振などを喫する一方、14本塁打を放つなど非凡な打撃センスも見せ、翌2013年には半永久欠番として扱われていた背番号『7』を継承することとなった。しかし、その後は周囲の期待に応える活躍を見せることはできず、長らく一軍と二軍を行き来するシーズンが続いた。2019年は、一軍出場を果たすようになって以来最低となる28試合の出場にとどまった。

 しかし背水の陣で臨んだ2020年は春先から好調をキープ。2014年以来6年ぶりとなる開幕スタメンを勝ち取ると、シーズンに入っても好調を維持し、一時は打率4割超えでリーグの首位打者を快走。8月、9月にやや打撃成績を落としたものの、10月から再び上昇気流に乗り2012年と同じ自己最多タイとなる14本塁打、打点(58)と打率(.279)は自己最多を更新する成績を残した。

 2021年も2年連続で開幕スタメンを勝ち取るも、その後は徐々に成績が下降。最終的には打率.190と低調なままシーズンを終えた。この年、国内FA権を取得するも残留を宣言。広島愛を貫いた堂林が、野村謙二郎のイメージが強く残る背番号『7』を塗り替える活躍を見せることができるか。2022年シーズンの活躍に注目したい。

【背番号『7』を背負った主なカープ選手】
銭村健四(外野手/1955年-1956年)
緋本祥好(外野手/1957年-1960年)
山本一義(外野手/1961年-1975年)
内田順三(外野手/1980年-1982年)
野村謙二郎(内野手/1989年-2005年)
堂林翔太(内野手/2013年-)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。