広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。ここでは、2021編集部セレクションとして、昨年特に反響の多かった記事を振り返る。

 今回は、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る企画。現役時代にはキャプテン、引退後は監督も務めた、名手が背負った背番号「7」を取り上げる。(2021年4月2日掲載記事を一部編集)

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2005年6月23日のヤクルト戦で2000安打を達成した野村謙二郎氏。

 背番号『7』は1950年の球団創設以来、現在まで野手のみが背負ってきた番号だ。岩本章が4年、山川武範が1年つけた後、それぞれ引退。1955年6月には銭村健四のものとなった。

 銭村は、カープが初めて外国人選手を導入した際に入団した3選手の一人で、あとの2人は実兄の銭村健三と、光吉勉。いずれもアメリカ在住の日系人だった。広島出身の父を持つ銭村兄弟は1952年に全米学生選手権のメンバーとして来日し、翌1953年に光吉とともに募金によって集められた400万円でカープから招聘され入団に至った。兄・健三は早々に帰国してしまったが、健四は持ち味の俊足を生かし、カープの“走る野球”の原点となった。

 その後を継ぎ、1957年に『7』をつけたのは緋本祥好。無類の努力家として知られ、背番号『41』時代の1956年にはチームトップの15本塁打を放ってチーム初代の大砲に。しかし死球による手首の骨折、視力が悪く広島市民球場新設によるナイトゲームの増加に対応できなかったことなどが重なり、思うような活躍はならなかった。

 緋本が東映に移籍した後、1961年からは後に“元祖ミスター広島”と呼ばれた山本一義が継承。広島商高時代に春夏甲子園出場、法政大では東京六大学リーグで優勝を飾った後、地元のカープに入団。ルーキーイヤーから一軍に定着した。

 1975年まで15年間プレーした間には、10年連続二桁本塁打、ベストナイン2回などの活躍を見せた。1974年からはコーチを兼任し、1975年にはチーム初の優勝を見届けて現役を引退。1976年から1979年の4年間はコーチも務め、その後ロッテで監督も経験した。