1997年4月25日、巨人戦でプロ初登板初先発を完投勝利で飾った。初三振は松井秀喜だった。

◆完投を重ねてエースの意識を持った

 現役引退後、黒田は山本カープ時代の自分をこう振り返っている。

「僕は山本浩二監督に育てられたというか、信頼されて使ってもらえたというのが自分にとって大きかったと思います。浩二さんとの5年間は僕自身、投手として一番成長できた時期でした。起用されれば長い回を投げる、完投する、それが『エースの条件』というような……今とは少し違うかもしれませんが、そうやって起用してもらう中で、エースとしての意識をしっかり持てました。僕自身、気づかないうちに育てられたのかもしれません」

 山本浩二監督時代の2001〜2005年、黒田が5年間で記録した完投数は実に47。エースとして驚異的な数字を記録している。

 山本監督最終年の2005年には自己最多の212.2イニングを投げて15勝をマークし、最多勝を獲得した。カープの絶対的エースとして孤軍奮闘し、球界を代表する先発投手となった。だがチームとして弱投のカープは最下位に終わる。そして、翌年から立て続けに大きな決断を迫られた。

 2006年シーズン中にFA権を取得。カープにとってFAは『主力選手の移籍』という意味合いが強く、ファンにとっても苦い思い出ばかりだ。それだけにエースの残留という願いは、次第に大きなうねりとなっていく。

 シーズン終盤、旧広島市民球場のライトスタンドには残留を願う巨大横断幕が掲げられた。心を動かされた黒田はオフにカープ残留を表明し、大きな話題となった。

「ファンのみなさんに大きな声援をいただいた10月14日と16日に市民球場で試合があって、その後11月6日にみなさんの前でああいう形(残留会見)で自分の気持ちを言わせていただきました。そういう中で3月上旬に市民球場で先発した時、ファンの方たちが今まで以上にグラウンドの中を見てもらっているなと。感じるものがありました」

 ファンの熱い思いを受け、低迷するチームでエースとして投げ続けた。翌2007年もリーグ最多完投を記録するなど奮闘したもののチームは5位。日本球界を代表する投手となっていたこの時期、1人の投手としてさらなる高みを目指すべきか、カープに残留すべきかを熟考した。

 そして2007年11月、悩み抜いた末に涙のFA宣言。背番号15はメジャーへと活躍の場所を求めていく。