2010年に投手三冠を獲得して以降、カープの絶対的エースとして孤軍奮闘した前田健太投手。

 2020年、カープにドラフト1位で入団した森下暢仁は、5年間空き番号となっていたエースナンバー18を背負うなど、将来のエースとして大きな期待がかけれらている。

 それまでに18を背負っていたのは、カープのエースとして孤軍奮闘の活躍を見せていた前田健太(現ツインズ)だ。前回、広島アスリートマガジンで重ねてきた前田の独占インタビューでのコメントを元に、2009年までを振り返った前編に続いて、今回はブレイク後、エースに上り詰めるまでの軌跡を辿っていく。

 2009年、前田は8勝14敗と大きく負け越したものの、チーム最多の193イニングを投げ、プロ3年目にして先発の柱へと成長した前田。大ブレークを果たしたのが、プロ4年目の2010年だった。当時、シーズン前に目標をこう語っていた。

 「何でも良いのでシーズンが終わった後にタイトルを手にしていたいですね。そうすれば気持ち的にも、投手としてのイメージも全然違うと思います」

 このシーズン、前田は発言を現実のものとした。当時先発1番手であった大竹寛(現巨人)がケガで出遅れ、自身初の開幕投手を託されると見事勝利で好スタート。その後5月に月間MVPに輝くなど、前半だけで初の二桁勝利を記録。オールスターにはファン投票両リーグ最多得票で初出場を決め、マエケンの名は全国区になった。

 最終的に前田は15勝8敗、防御率2.21、奪三振174を記録し、史上最年少、球団史上初の投手三冠を獲得。さらに沢村賞にも輝き、一気に球界を代表する投手に上り詰めた。  

 当然、周囲からはエースと見られる立場になったが、本人の気持ちはそうではなかった。

 「僕がいなくても、みんながエースだと認めてくれる地位を築かないといけません。昨季の成績でエースになるためのスタートを切ったというか、エースへの道のりを進み始めたところだと思うので、これからです」

 好成績を残したことで、目指すべき目標も高い水準となった。翌2011年は2年連続最多奪三振こそ獲得したが、10勝12敗と負け越し。当然納得できるものではなかった。

 「僕のプロ野球人生の中でこの1年は最悪の1年だったと思いますが、ある意味良かったと思いますし、自分の最悪がこの数字なんだと思えました。最悪のレベルが徐々に上がっているということは、自分のレベルも上がっているということですからね」

 野村謙二郎監督が率いていた当時のカープは、後の黄金期を支える若手が積極起用されるなど転換期を迎えていた。そんな中で絶対的エースとして孤軍奮闘を続けていた前田に充実感は一切なかった。

 「自覚を持っていますけど、胸を張って自分の口から『エース』とはまだ言えません。エースというのは、チームを勝たせないといけない立場ですから。まだ胸を張れる順位ではないので、優勝やクライマックス・シリーズ(以下CS)に行ければと思っています。エースという言葉は、チームが優勝したときに、自分が中心となってできていれば、胸を張って言いたいなと思っています」