チーム低迷期に先発、中継ぎとフル回転 カープの屋台骨を支えた“頭脳派”左腕

貴重な左腕として先発、中継ぎと息長く活躍。08年、39歳での完封勝利が光る。現在は阪神の二軍投手コーチとして後進の指導に当たっている

 いつの時代も左腕投手は貴重な存在だ。かつてカープの黄金期には江夏豊、大野豊、川口和久、清川栄治ら球史に名を残すサウスポーが名を連ねていた。ところが91年の優勝を境にチーム状態が低迷し始めると、以降は慢性的に左腕不足が叫ばれるようになった。入団3年目以降はBクラスが定位置という状況下で、孤軍奮闘を見せたのが高橋建である。

 小学4年生のときに野球を始めた高橋は、学生時代は主に投手としてよりもバットで才能の片鱗を見せていた。持病の喘息に悩まされながらも、長距離砲として頭角を現し名門の横浜高に進学。もちろん投手としても名将と名高い渡辺元智氏に素質を見込まれ、石井琢朗(足利工高)目当てにスカウトが集まるような注目試合で先発を任されることもあった。

 転機となったのは拓殖大4年生のときに、本格的に投手へと転向したことだ。150キロを超える球を持つ左腕は、そうはいない。トヨタ自動車への入社以降は逆指名の誘いが8球団を数えるなど、プロからも注目を集める存在となっていった。しかし都市対抗や日本選手権で結果が出なかったこともあり、会社側は高橋のプロ入りに難色を示した。納得できない気持ちを抱えながら、高橋はトヨタの意向に沿う形で会社に残留した。

 ところが、この選択が後に彼自身の首を絞めることになる。入社3年目に左肩を痛めたことで、8球団のスカウトは潮が引くように去っていった。社会人2年目の秋にプロ入りしていれば……。25歳という年齢を考えれば、翌年のドラフトを待つというのも現実的な話ではなかった。

 しかし、ここで思わぬ幸運が舞い込む。カープで大野と共に先発の柱として活躍していた川口が、94年11月8日に球団初のFA権の行使を宣言。快速左腕の穴を埋める存在として急遽、カープが白羽の矢を立てたのが高橋だった。同年のドラフト会議が開かれたのは11月18日。まさに急転直下のプロ入りだった。

 カープ入団後は先発、中継ぎを問わず息の長い活躍を見せた。入団3年目以降はすべてBクラスという低迷期において、高橋自身は通算70勝をマーク。これは左腕としては球団4位の記録だ。08年には巨人を相手に、わずか102球で完封勝利。大野に次ぐ球団2位の高齢完封記録(39歳0カ月)を樹立すると、同年のオールスターにも選出された。39歳2カ月でのファン投票での選出は、当時の最年長記録だった。

 30代半ばからは左膝の手術など、対戦相手だけではなく故障との戦いも余儀なくされた。それでも高橋はその都度復活し、40歳にしてメジャーのマウンドも経験した。「建さん」と呼ばれ誰からも愛された左腕の笑顔と勇姿は、今も往年のカープファンの記憶に深く刻み込まれている。

◾️ 高橋 建   Ken Takahashi
神奈川県出身/1969年4月16日生/左投左打/投手/横浜高-拓殖大-トヨタ自動車-広島(95年-08年)-メッツ(09年)- 広島(10年引退)

【表彰・獲得タイトル・記録】
1000投球回(03年)/1000奪三振(08年)/オールスターゲーム出場(00年、01年、03年、08年)