カープの長い歴史の中で、これまでに18人の指揮官がチームを率いてきた。人を育て、チームを一つにし、そして、それぞれの哲学をもとに大きな目標に向かって進んでいく。

 歴代の名監督の下で苦難を共にしたカープOBが語るその人物像と、そこから垣間見える人材・チーム育成のヒントを探る。

選手としても監督としても個性の強い山本浩二。実は誰よりも我慢強い一面を持っている。

 80年代の黄金期を支えた主力に衰えが見えた時代、チーム再建を託されたのはミスター赤ヘル・山本浩二。現役時代、そして首脳陣として山本浩二と共に6度の優勝を経験した木下富雄氏に山本野球を語ってもらった。(広島アスリートマガジン2018年4月号より)

◆ 

浩二さんが最初に監督に就任されたのは89年でした。一番印象的なのは、浩二さんが監督就任直後の秋季キャンプです。当時、私は二軍守備走塁コーチでしたが、一軍と二軍の首脳陣も一緒になり秋季キャンプに臨みました。

 チームの主力には髙橋慶彦、山崎隆造、達川光男、長嶋清幸らがいましたが、皆30歳前後。浩二さんが見た印象では、『若いけれど動きが鈍っている』というものでした。そしてそのキャンプでは肉体改造をテーマにとにかくハードな練習を選手たちに課しました。

 通常、秋のキャンプは個々の長所を伸ばしたりするものですが、私の記憶では選手は陸上選手のようにずっと走っていたように思います。コーチであった私たちも、朝から晩まで選手に付き合うわけですから、しんどい思いをしました(苦笑)。

 何故そのような厳しい練習から入っていったかというと、動きが鈍っているという面だけではなく、チームは良い意味でも悪い意味でも『優勝慣れ』している状況でした。それだけに、浩二さんは厳しい練習を行うことで、『お前たちはもっとできる、まだできる。もう一度優勝を目指すために何をするべきか?』ということを秋のキャンプで示しました。

 75年にルーツ監督が就任した時、当時3年連続最下位であったチームを『君たちはやればできる。こうすれば優勝できるんだ』という意識改革を行いましたが、浩二さんはそれを身を以て体感しているだけに、『何かを変えたい』という思いが非常に強かったのだと思います。

 また浩二さんはコーチ陣に対しても厳しさがありました。個人的な思い出は優勝した91年です。監督就任3年目、私は一軍守備走塁コーチに就任しました。しかし、春のキャンプで「お前二軍に行ってこい」といきなり配置転換を指示をされました。

 その後、オールスター前にサードコーチャーを担当していた高代(延博)と再び配置転換されました。シーズン中にコーチを配置転換するというのは、選手たちにとってもインパクトを与えたと思います。

 浩二さん二度目の監督就任となる01年、私は二軍監督という立場で一緒に戦わせていただきました。当時はFA制度の影響もあって、金本知憲ら主力選手が抜けるなど戦力が整わない時期でした。

 周囲からも優勝は難しいと言われていましたが、それでも一軍監督として当然優勝を目指さなければなりません。それだけに、浩二さんもあの時代は苦しさがあったと思います。

 当時チームの成績こそ思わしくありませんでしたが、良い素材を持った若手選手が何人も育っていきました。最初に監督をされていた時には江藤智や前田智徳が、二度目の監督時には、新井貴浩や栗原健太といった多くのスラッガーが生まれました。

 もちろん育てるには時間を要しますし、我慢強さも必要になるでしょう。そういう意味で浩二さんはとても我慢強い監督でもあったと思います。私は古葉竹識さん、阿南準郎さんの元でプレーをさせていただきましたが、監督としてのカリスマ性でいえば、浩二さんはナンバーワンでしたし、厳しさの中に温かみのある監督でしたね。

 

木下富雄/きのしたとみお

 1951年5月7日生、埼玉県出身。73年ドラフト1位で広島入団。主にセカンドを守りながら、カープ黄金時代のユーティリティープレーヤーとして長年活躍。87年限りで現役引退し、その後は93年まで山本監督体制の下、広島コーチを歴任。00年に広島コーチに復帰し、01〜05年には二軍監督として多くの若手を育てた。山本浩二と共に、75〜91年までの間に6回の優勝を経験している。

広島アスリートマガジン2月号は、本誌初登場!秋山翔吾 2023年の覚悟』。さまざまな角度から秋山選手の“覚悟”に迫りました。2015年以来の登場となる、前田健太選手インタビューにもご注目ください!