毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がかつて語った、現役時代に打率3割以上を11回記録し、2007年に通算2000安打を達成した前田智徳が、1989年ドラフトで4位指名となったその経緯をお伝えしよう(2021年掲載記事を再編集)。

現役23年間で2119安打、生涯打率.302を記録した前田智徳。

◆自分で納得がいかない点があると度々首をかしげていた

 打撃に対しての妥協なき姿勢から、前田は「サムライ」あるいは「芸術家」などとプロ野球ファン全体から評されています。入団前の高校時代からその面影はありましたが、地元熊本のラジオ番組やタウン誌を楽しみにしていたという面もあったそうで、もともとは素朴でおとなしい野球少年だったと記憶しています。

 4位という部分だけで見ると一見評価が低かったように見えますが、決してそうではありませんでした。彼の事は高校1年時から「熊本に非常に打撃センスの良い子がいる」という情報が、九州を担当していたスカウトの村上孝雄を通じて入っていました。

 彼は前田をずっと追いかけていて、「これはぜひとも欲しい選手ですので」と報告を受けていました。それで私も3年の春のセンバツに甲子園まで見に行ったんです。確かに足も速く肩も強くて守備範囲の広いセンターで、そして何より、球を芯で捉えるのが上手かったのです。

 ただこの大会では内容が悪かったので、それで他のチームの評価があまり高くなかったんじゃないかなと思います。ただうちの場合は評価は全く変わりませんでした。

 試合でヒットやホームランを打っても、何か自分で納得がいかない点があると度々首をかしげていました。そしてバットのボールが当たったポイントをじーっと見て確認している。これは現在とほとんど変わりませんが(笑)。

 高校時代から、結果だけを見ているのではなく、内容で自分のバッティングを分析するタイプでした。「打撃に対して相当こだわりを持っている子だな」と感心して見ていたものです。本人もプロ入り志望で、しかもカープ入団にも前向きだったので、獲得には問題はありませんでした。

 順位は4位と低かったですが、よくあの順位で獲れたと思っています。同期の仁平(馨・2位指名)、前間(卓・3位指名)が春から夏にかけて評価を上げていたこともあり、順位は先を越された形になりましたが、素材としては彼らに十分勝っていたと思っています。

 もし他球団に先に指名されていたら、悔やんでも悔やみきれない事になっていたかも知れませんが、村上が学校(熊本工高)側にも本人側にもしっかり話をして、十分に入り込んでいたのが大きかったと思います。

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【前田智徳】
1971年6月14日生、熊本県出身。熊本工-広島(1990-2013年引退)。熊本工時代は2年時に春、夏、3年時は主将として夏と甲子園に三度出場。1989年ドラフト4位でカープに入団すると、高卒1年目から一軍に定着。1991年には史上最年少でゴールデングラブを獲得。1992年から1994年まで3年連続3割を記録するも、1995年に右アキレス腱を断裂し長期離脱。以降は故障と戦いながらも卓越した打撃技術を武器に安打を重ね、2007年に通算2000安打を達成。選手晩年には代打として活躍し、2013年限りで現役引退。

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