今もなお聖地として多くのカープファンが訪れる旧広島市民球場跡地。以前、広島アスリートマガジンで連載していた『嗚呼、我が広島市民球場』から、カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちの思い出を改めてご覧いただこう。(広島アスリートマガジン2008年より。表現、表記は掲載当時のまま)
◆忘れられないあの球場グルメの味
達川光男:私にとって広島市民球場は、子供の頃から特別な場所でした。眩く光るカクテル光線がグラウンドを照らし、緑の芝の中に浮き上がって見えるダイヤモンド。初めてスタンドに足を踏み入れた時の感動は今でも忘れられません。また、カクテル光線以上に輝いて見えたのが、グラウンドでプレーする選手たちでした。広島市民球場は選手とファンとの距離が近く、選手を間近に感じることができました。当時、内野ファウルグラウンドにあったブルペンでは、安仁屋さんや外木場さんたちの豪球と、響き渡る捕手のミット音に、「これがプロか」と驚きを覚えました。また、売店で売っていた『カープうどん』の味も忘れられない思い出のひとつ。当時は、この世にこんなに美味しいものがあるのかと思ったほどでした。
初めて広島市民球場のグラウンドに足を踏み入れたのは、広島商高1年の時でした。夏の大会でボールボーイを務め、張り切って新品のジャージを着ていきました。ただ、嬉しさと恥ずかしさで表情が緩むのを抑えきれず、主審にボールを渡しに行く時も思わず笑みがこぼれ、先輩に怒られてしまいました。
78年に憧れていたカープに入団することができ、それから広島市民球場は私にとって仕事場となりました。プロデビュー戦は、同年7月11日。守備から途中出場させてもらったのですが、レガースをつける時に「お前、足が震えているぞ」と、先輩から指摘されたほど緊張していました。ナイターでのプレーは初めてで、投手からの球は浮き上がって見え、キャッチャーフライはそのまま夜空に吸い込まれていくのではないかと思うほどでした。不安や緊張を払拭しようと、全力疾走でポジションに就いたのを覚えています。その甲斐あってか次第に落ち着いてプレーでき、その後のプロ初打席で初ヒットを記録。入団直後は自分がプロの世界でヒットを打てると思っていなかったので、これで選手を辞めてもいいと思ったぐらい嬉しかったですね。
ただ捕手として、広島市民球場でのリードには苦心しました。他球場とは違い、当たり損ねの打球でもホームランになる可能性があります。そこで投手には細心の注意を払う事と、それ以上に覚悟を持って投げ込む事を周知徹底させていました。私自身も覚悟し、投手には「ソロホームランやゴロのヒットは良い」と気持ちにゆとりを持たせるリードを心がけていました。四球にしても無駄な四球は厳禁ですが、例えば3対1でリードした終盤に1死満塁でバースを迎えた時は、勝負に行った結果が四球でもいいと。ピンチに立った時に投手を追いつめるようなことはしません。投手と捕手は運命共同体ですからね。
私が優勝に立ち会えたのは5度ありました。そのうち胴上げの瞬間、マスクを被っていたのは3度で、それぞれ最後の場面は今でも鮮明に覚えています。ただ、それはキャッチャーという職業柄、当然のこと。球を受けた投手はもちろん、対戦した打者や打ち取るまでの配球、そして歓喜の瞬間までの1コマ1コマを一生忘れることはないでしょう。
広島市民球場がなくなることは、諸事情があるとはいえ非常に寂しく思います。50年以上に渡り、グラウンドでは勝者と敗者だけでなく、日の目を見ずに終わった選手や激闘の中で血を流した選手も数多くいました。球場にはプレーした選手の数だけドラマがあり、彼らの魂が眠っているのです。私も野次られたり、痛い目に遭ったりしましたが、それでも私にとっては我が家のようなもの。選手、監督として球場の歴史に名を残せたことは、掛け替えのない財産となっています。
●達川光男 1955年7月13日生まれ 東洋大から77年ドラフト4位で入団。3度胴上げバッテリーとなるなど、黄金期を支えた名捕手。92年引退後ダイエー(現ソフトバンク)のコーチを経て98年にカープ二軍監督、翌99年には一軍監督に就任した。