俊足・巧打の外野手として、カープを長年にわたって支え続けた天谷宗一郎氏。広い守備範囲の中で繰り出された数々の奇跡的なプレーは、チームを救いファンを大いに沸かせた、まさに外野手のスペシャリストの一人だ。そんな名手が現役時代にその目で見た、多くのスペシャリストについて語ってもらった。

強烈な印象を残すプレーが多かった天谷宗一郎。ファンは一つひとつのプレーに歓喜した。

大きかった赤松真人の存在

—現役時代は走攻守の全てで、高いレベルのスペシャリストであった天谷さんですが、どんなことを意識していましたか?

 「スペシャリストは誰と聞かれたら、僕はまず赤松(真人)さんをイメージします。僕の現役時代でしたら、足のスペシャリスト鈴木尚広(元巨人)さんか赤松さんですね。ですから僕は、走攻守の総合力で勝負するしかないと感じていました。
 当時、代打のスペシャリストは小窪(哲也)がいましたし、松山(竜平)選手もスタメンではない時は代打で起用されていました。打つ方では敵わないので、僕は彼らよりも走攻守の3つを平均的に高いレベルで表現できるような選手を目指していました」

—一軍で生き抜くために、どれか一つではなかったということなのですね。

 「そうでないと、各分野で僕よりも高いレベルの人がチームにいましたからね。ですが若い時は、まず守備・走塁の力をつけることを意識しました。それが一番の一軍への近道でしたからね。そのなかで2008年に阪神から赤松さんが移籍されてきたのは、僕の野球人生にとって大きな出来事でした。
 右打ち左打ちの違いはあれど、『足が速くて守備範囲が広い』といったタイプ的にはほぼ一緒のプレイヤー。最初は、相手先発の右左によって、どちらかがスタメンで出るという感じでしたが、ときには1、2番を組んで出ることもありました。赤松さんが一つの目標ではありましたが、当時の自分からすると、ライバル視させていただいた存在、特別な方でした」

俊足堅守を誇った赤松真人。走塁はもちろん、外野守備でも最高レベルのプレーを見せてくれた。

—赤松さんのどういった点がスペシャリストだと感じましたか?

 「たとえば、代走として使われるときは、準備の仕方はみんなと一緒なのですが、気持ちの入れ方が全く違いました。終盤での1点差だとか、絶対に次の1点で試合が決まる場面で、グッと気持ちを入れるのです。『ここはオレが出るしかいないでしょ』という空気感をつくり出すというか。
 でもそうではないときは、気持ちをフラットに保っている方でした。そういった気持ちの強弱の付け方が、赤松さんはすごかったなと思います。どんな状況でも冷静にチームや試合展開を見られる点も、赤松さんはすごかったですね。僕は、代打・代走・守備固めと、どこでも出なければいけない立場だったので、常に気持ちが張りつめていました。

 僕とは反対に、現役晩年の新井(貴浩)さんは、常に気持ちがフラットでした。出番になったら「新井さ〜ん!」と、ベンチから迎(祐一郎)コーチが呼ぶんです。そうすると『おぉ〜いっ!』って感じで出ていかれて(笑)、素晴らしい結果を残されていました。
誰にも真似できないことですし、これまでの経験と技術で、そのような打撃ができるのだと感じていました。もちろん体の準備はされていましたが、赤松さんのように気持ちの強弱が表に出ません。もしからすると新井さんは僕たちに気を使って、ピリピリと入れ込んだ気持ちを表に出してなかったのかもしれませんね」

⚫️天谷宗一郎(あまや そういちろう)
1983年11月8日生、福井県出身。福井商高-広島(2001年ドラフト9巡目)。俊足強肩巧打の外野手として、現役時代は主にセンターを任されていた。走力だけでなく、打球の読みと素早い反応で広い守備範囲を誇った。またギリギリの飛球をダイビングキャッチするのは、天谷の代名詞といえるプレーだった。2018年に現役を引退し、現在はRCC中国放送の野球解説者として、カープの試合を見守り続けている。