◆ピンチがチャンスに
しかしここまで一気に化けるとは思わなかった。まさに原石がものすごいスピードでダイヤモンドに変化していったようなものだ。一見ピンチに思えるようなことがチャンスになる、主力が抜けてヤバイというときに限って新しい力が伸びてくる―こういう事態は意外と野球では起こりえることだ。
たとえば1990年、ロッテに移籍した(髙橋)慶彦さんに代わって、2年目の僕がショートのレギュラーになったのだが「野村じゃ無理だよ」という声を跳ね返したくて頑張れたところがある。慶彦さんより劣る成績を残したくないという意地が支えになって、大きく成長することができたのだ。
また、2000年、金本はトリプルスリー(打率.315、30本塁打、30盗塁)を達成したが、それも僕、前田、緒方がケガで戦列を離れており「3人がいなくてダメだったと言われるのがイヤで必死でやった」と言っている。そういうタイミングに巡り合うのは運のようなものだが、この世界で運は確かにある。だから野球選手はケガをしてはダメなのだ。ケガをするとチャンスを誰かに与えてしまうし、自分からその運を手放してしまうことになる。
チャンスを見事に活かしたマエケンは、野手になっていても良いバッターになったことだろう。彼は桑田真澄さん同様、天性の野球センスと身体の柔らかさを持っている。
2010年は今も語り継がれる一戦があった年でもある。5月15日の日本ハム戦。ダルビッシュ(有)とマエケンの投げ合いは双方譲らず、9回裏に赤松(真人)のサヨナラヒットで勝つことができた。
僕はこの試合で采配をしたが、日本を代表するエース対決という部分はまったく意識していなかった。メディアは煽るし、マエケンもダルビッシュもお互いに意識していることはわかったが、僕は目の前の試合に勝つことしか考えてなかった。
いつもと同じようになんとか相手より1点多く取って勝つこと―だからこの試合も1対0という最高のスコアで勝てたという喜び以外、それほど感慨はない。監督というのは、案外そういうものである。
●野村謙二郎 のむらけんじろう
1966年9月19日生、大分県出身。88年ドラフト1位でカープに入団。プロ2年目にショートの定位置を奪い盗塁王を獲得。翌91年は初の3割をマークし、2年連続盗塁王に輝くなどリーグ優勝に大きく貢献した。95年には打率.315、32本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。2000安打を達成した05年限りで引退。10年にカープの一軍監督に就任し、積極的に若手を起用13年にはチームを初のクライマックス・シリーズに導いた。14年限りで監督を退任。現在はプロ野球解説者として活躍中。