栃木県日光市にホームを置き、アジアリーグアイスホッケーに所属するアイスホッケーチーム「H.C.栃木日光アイスバックス」(以下、アイスバックス)は今シーズン、チーム創立25周年の節目を迎えた。
チームは4シーズン目の指揮を執る藤澤悌史監督の元、9月に開幕した2024-2025シーズンで熱い戦いを繰り広げている。ここでは2006年からアイスバックス シニアディレクターを務め、長年チームを見続けているセルジオ越後氏に、改めて思いを聞いた。(3回連載・3回目)
◆日本のスポーツは「種目文化」
―改めてお伺いしますが、セルジオさんは栃木とどのような関係があったのですか?
「僕がサッカーで初めて日本に来たのが栃木だったのね。そうしたらまた栃木に戻ってきたの。栃木にもプロのサッカーチームがあるのに、なぜサッカーじゃないのかってよく言われたけれど、サッカー関係はすでにいっぱい人がいたから。でも種目を越えて一緒にやればもっと良くなるし経済効果もあるのに、そうはならない。分裂するっていうことはパワーが半分になる、4つだったら4分の1になっちゃうのよ。でもみんな一つのチームに出したら他も出さなくちゃいけないから、両方断った方が楽って考えるんだよね」
―セルジオさんが考えるスポーツクラブ構想を聞かせてください。
「スポーツクラブというのは複数の種目があるのよ。例えば、栃木スポーツクラブにアイスホッケーもサッカーもバレーボールもあって、全部同じユニホームを着ていたら、お金集めやすいんじゃないかな。そしてみんながそれで街を歩いていたら声をかけやすいじゃない。それがスポーツが地域にもたらす良さなのよ。今は俺らは俺でやるってなっているから、全チームが苦労してる、僕らもサッカーも。バスケだけがうまくいってるように見えるけれど、リスクは抱えてるよね。勝つほど選手の年俸が上がるし、もし勝てなくなったらどうするかとか。地域密着のためにつくられていないと、負け出したらみんな来なくなるんだよ」
―改めて、ここまでアイスバックスに関わってきた日々をどう感じていますか?
「率直にうれしいよね、ここまで来たっていうのは。サッカーではできなかった新しい出会いが本当に多かった。1人では何もできなかったし、市民の理解や土台がなかったらできなかったな。サポーターに背中向けられたら商売も立ち行かなくなるし、プロの組織というのは、いかにして人を喜ばせるかが仕事なんだっていうことを学んだ。勝ち負けだけではなくて、『リンクに行けば友だちと会える』ということ、それがこのチームのコンセプトだよ」
―日光でアイスホッケーが始まって100年となります。
「この地域に古河が蒔いた種がちゃんと残ったんですよ。熱烈なファンが『無くしたくない』って言ったことから始まって、選手がそれに加わって、それが自然に地域と密着して。そうして20年近く経ったら元親会社の日光工場に勤めた人がみんな偉くなって、もう一度応援しようと。古河電工がスポンサーになった年にいきなり日本選手権で優勝しちゃったのよね。それはもうみんな興奮して社内でも騒ぎになったって。それから少しずつ今度はグループがスポンサーになりだしたら影響は大きいよね。地域でも話題だし、俺タクシーの運転手に『セルジオさん、古河が戻りましたね』って言われたの。そういう文化の中で一緒に100年を迎えるってすごいよね」
<プロフィール>
セルジオ越後(せるじお・えちご)
1945年7月28日生(79歳)ブラジル・サンパウロ出身
ブラジル・サンパウロで生まれ育ち、同国の名門クラブであるコリンチャンスなどでプレー。1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(現:湘南ベルマーレ)に所属、日本サッカーリーグ(JSL)初の元プロ選手として活躍した。
引退後、JSL1部の永大産業のコーチを務める。1978年より「さわやかサッカー教室」の認定指導員として全国各地を回り、25年間で1000回以上実施、50万人以上の少年少女を指導した。
ブラジル仕込みの卓越したボールテクニックを披露することで少年少女に刺激を与え、受講者から、後にJリーグ選手や日本代表選手になった者は枚挙にいとまがない。全国各地でサッカーの種をまき、その後の日本サッカーの発展に大きく貢献した。また、日本サッカー協会の強化委員(現、技術委員)としても活躍。
現在はサッカー解説者として、サッカーの楽しみ方や魅力を伝えるほか、厳しい視点で問題点を追求するなど辛口のコメンテーターとしても知られている。また、プロアイスホッケークラブのH.C.栃木日光アイスバックスや日本アンプティサッカー協会などの役員を務めるなどスポーツの振興にも尽力している。
2006年文部科学省生涯スポーツ功労者表彰、2013年外務大臣表彰、2017年旭日双光章を受賞。2023年公益財団法人 日本サッカー協会「第19回日本サッカー殿堂」に掲額。