栃木県日光市にホームを置き、アジアリーグアイスホッケーに所属するアイスホッケーチーム「H.C.栃木日光アイスバックス」(以下、アイスバックス)は今シーズン、チーム創立25周年の節目を迎えた。
チームは4シーズン目の指揮を執る藤澤悌史監督の元、9月に開幕した2024-2025シーズンで熱い戦いを繰り広げている。ここでは2006年からアイスバックス シニアディレクターを務めているセルジオ越後氏に、改めてチームに対する思いを聞いた。(3回連載・1回目)
◆僕が決心したのは、サポーターのお願いだった
―アイスバックスとの出会いを教えてください。
「えのきどいちろうさんから『浦和レッズみたいに強烈なファンがいて面白いから見に行かないか』と誘われたのがきっかけだね。試合が週末なので土曜日の試合が終わったら選手と食事したり、温泉に行ったりもできるしと。それで自由席の列に並んだんだけど、お客さんは満員だったし成功しているチームだと思っていたのね。それでシーズンオフに選手とフットサルでもやろうと話が出て、交流が始まりました」
―最初にアイスバックスを知ったときの印象はいかがでしたか?
「ジムが無くなるって聞いて『あんなに成功してるのに?』って。僕はテレビで高橋健次さんが古河電工の廃部後に存続に奔走していたドキュメンタリーを見ていたし、神戸の会社に経営者が変わっても上手くやっているイメージだったの、ずっと変わらずお客さんも来ているし。でもあとで聞いたら何ヵ月も給料の未払いがあったと。生活ができないって主力選手が移籍し始めたのね。あの時はまずGKの春名(真仁)に電話して『一緒に仕事したい』って言ったけど、『もう王子(当時)に決まりました』って言われたのよ」
―チーム再建には選手補強が必須ですが、どのような動きがあったのでしょうか?
「当時、神戸の経営者がお金を使って良い選手を集めて、でもそれがどのくらい利益を上げるか、その給料は命取りになるかもしれない、そういう知識がなかったから、選手の給料のほかにリンクや業者の未払いも膨らんで負債が3億円ぐらいになっていたかな。『セルジオさんがいたらみんな残って頑張るって言ってる』って聞いたけれど、でもそんなにお金もないし。それでまずは情報を集めようとメディア全部集めて懇親会やってね。そのころにはスポンサーが選手に給料を払わないチームにはお金出さないって言い出していて、もう信頼はなくなっていた。ただチームが無くなったら二度と元には戻らないのは分かっていたし、銀行からの借入れにも限度があるから自分の大阪のマンションを担保に入れて、周りからも馬鹿なことするなって言われたけれど、残る可能性もあるじゃないかと」
―最終的に決心したのは、どのような理由だったのでしょうか。
「実際に僕が決心したのは、サポーターのお願いだったのね。チームが無くなるかもしれないっていう噂が流れて『セルジオさん、頼みます』って。『このチームが無くなったらみんなの居場所が無くなってしまう』って。選手は移籍や引退で街を出ていくけれど、サポーターは地元に残るんだよ。本当の地域密着っていうのは、地域の人と人が出会って親しくなる場をつくること。それがいずれ地域の活性化に結びつく。チームは地域の人の憩いの場をつくる、サポーターのためにあるんだよ。それにもう一つ、残った選手が未払いでも頑張るっていう愛があった。あとは地元の女性と付き合いだした選手が多くて、そのうち結婚もして、結局地域と密着してたんだよね」
―実際に会社を立ち上げた当初はいかがでしたか?
「新しい会社を立ち上げたけど、借金返済をしながら運営するのはすごい難しかった。また資金が底を突いちゃって、えのきどさんたちが募金活動をして1週間で7、800万円ぐらい集まって、それで苫小牧に遠征に行ったり、僕もいろんなところでお金をつくったりもしたけど間に合わないのね。20人以上いる選手で割ったらお小遣いみたいになっちゃうんですよ。アイスホッケー界は狭い世界だからアイスバックスに行ったら給料出ないからって広まって良い選手も取れない、そんな時代だったね」
―立ち上げ当初の困難から、流れが変わった時期の思い出を聞かせてください。
「鈴木貴人とか、内山、大久保などの西武の有名な選手が『アイスホッケーを残したいから』ってクラブチームに来てくれて流れが変わったよ。企業チームではまたいつか危なくなるかもしれないと。そのうち福藤(豊)とか、錚々たるメンバーが来た。営業も助かったし、お客さんも戻ってきた。そうやって少しずつ借金を返済していくうちに離れたスポンサーがもう1回やりましょうって言ってくれて。そしたら今度は吉本興業が応援してくれることになったんだけど、これが大きかったね。そうしてまた少しずつ返しながらやっているうちに、そこまで頑張るんだったらっていう企業も手を挙げてくれて、それで変わり出したのね。投げ出すのは簡単だけど、頑張ったから周りからの信頼も取り戻せたんだよ」
(中編に続く)
<プロフィール>
セルジオ越後(せるじお・えちご)
1945年7月28日生(79歳)ブラジル・サンパウロ出身
ブラジル・サンパウロで生まれ育ち、同国の名門クラブであるコリンチャンスなどでプレー。1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(現:湘南ベルマーレ)に所属、日本サッカーリーグ(JSL)初の元プロ選手として活躍した。
引退後、JSL1部の永大産業のコーチを務める。1978年より「さわやかサッカー教室」の認定指導員として全国各地を回り、25年間で1000回以上実施、50万人以上の少年少女を指導した。
ブラジル仕込みの卓越したボールテクニックを披露することで少年少女に刺激を与え、受講者から、後にJリーグ選手や日本代表選手になった者は枚挙にいとまがない。全国各地でサッカーの種をまき、その後の日本サッカーの発展に大きく貢献した。また、日本サッカー協会の強化委員(現、技術委員)としても活躍。
現在はサッカー解説者として、サッカーの楽しみ方や魅力を伝えるほか、厳しい視点で問題点を追求するなど辛口のコメンテーターとしても知られている。また、プロアイスホッケークラブのH.C.栃木日光アイスバックスや日本アンプティサッカー協会などの役員を務めるなどスポーツの振興にも尽力している。
2006年文部科学省生涯スポーツ功労者表彰、2013年外務大臣表彰、2017年旭日双光章を受賞。2023年公益財団法人 日本サッカー協会「第19回日本サッカー殿堂」に掲額。