1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。1993年7月20日に天国に旅立ち、2025年で没後32年、33回忌を迎える。ここでは、改めて津田氏が残した功績と記憶を関係性の深かったOBの貴重なエピソードと共に振り返る。

 1986年、津田氏はストッパーに転向し、数々の名勝負を繰り広げてきた。そして、その剛球を受け続けてきたのが、長年女房役を務めた達川光男氏だ。三冠王・バースとの対戦、優勝を決めた最後の一球、そして現役最後の登板。誰よりも近くで津田を支えてきた達川氏が、改めて当時のエピソードを語る。(全2回/第1回)

津田氏とバッテリーを組み、数々の名勝負を演出した達川氏

強い返球で津田と会話していた

 長い野球人生の中で、たくさんの良い投手と巡り合ってきましたが、津田はその中でも特別な投手でした。

 特に抑えに回ってからはファンのみなさんもご存じの通り「炎のストッパー」と呼ばれて、津田の名前を呼んだら今日は終わりと、当時の阿南準郎監督は言っていました。捕手として受けていて本当に楽しかった投手です。

 彼と出会ったのは1982年です。ドラフト1位で社会人野球の協和発酵から入ってきたのですが、姿を見て相当鍛えているなと思いましたし、これがツネゴン(津田氏の愛称)かと。ブルペンで初めて球を受けたとき、投げっぷりは良いし、ストレートの威力はすごい。数球受けて「これは新人王が取れるな」と思いました。

 2年目あたりから血行障害で苦労していましたが、1986年に抑えで復活しました。前年までは小林誠二が抑え役だったのですが、その年の4月の中日戦でリードした終盤に「ピッチャー津田」と聞いたとき、私は小林が出てくると思っていたのでびっくりしたことを覚えています。

 いざ抑えとしてマウンドに上がると、相手打者は手も足も出ず抑え切り「これは今年優勝できる」と思いました。先発の時には、ある程度セーブして投げていたと思いますが、抑えになってからはストレートが全く違いました。

 あの年、忘れられないのが当時三冠王のバース(阪神)との対戦です。

 甲子園での対戦で、すべてストレートで3球三振を奪いました。最後の球は高めを要求したのですが、普通高めの球は球威が落ちるケースが多いんです。ですが、津田のストレートはホップして、浮き上がるような球でした。空振り三振したバースが「クレイジーボール」と言っていました(笑)。今、私は高校生を指導していますが、高めに外す時は「ホップするようなイメージで」とアドバイスさせてもらっています。それは津田から教わった事です。

 1986年、津田は抑えで大活躍するわけですが、優勝を決めたシーンも忘れられないですね。神宮球場でのヤクルト戦で、先発の北別府(学)が8回まで投げて完投ペースだったのですが、最後は津田にマウンドを譲りました。

 最後の打者を三振に取った直後、彼は「心」という文字を書く動作をしています。これは相撲で勝った直後に懸賞金を受け取る時の仕草で、登板直前に津田が「もし最後三振ならやって良いですか?」と私に言っていたのですが、実際に三振を取るのですから、さすがです。優勝の瞬間は彼と抱き合いましたが、重たかったですね(笑)。前年まで故障で苦労をしていましたから、本当にうれしかったと思います。私も初めて優勝のウイニングボールをつかむことができて、最高にうれしかったです。

 その後、何度も津田とバッテリーを組ませてもらいましたが、普段津田はいろいろ考えるタイプでしたし、出番が回ってきたときは相当緊張していました。彼が「今日は絶好調です!」と言えば私は「じゃあ3分で終わるな」と言って、実際に1人1分、3分で終わっていましたよ。

 もちろん津田も調子が悪い日だってあります。そういう登板日に私は、気合いを入れるために「お前の球よりワシの球のほうが速いぞ」と、わざと速く、強い球で思い切り返球していました。気合いが入った津田は私の返球をむしり取るように受けていました。ですので、津田が投げる時は私の肩も張りましたよ(笑)。

 捕手は投手と会話や指でサインを出したり、いろいろな形でコミュニケーションを取ります。ですが、投手への返球の強さで会話すること、津田にはそれを教えてもらいました。

(後編へ続く)