その闘志むき出しの姿から『炎のストッパー』と呼ばれ、数々の勝利を引き寄せた津田恒実。没後32年の今、改めて、津田氏の足跡をカープOBたちの貴重なエピソードと共に振り返る。
現役時代、津田氏の剛球を受け続けてきたのが、長年女房役を務めた達川光男氏だ。誰よりも近くで津田を支えてきた達川氏が、津田氏の現役最後の登板となった一球を語った。(全2回/第2回)
◆現役最後の登板で感じた精神力。最後の一球はストレート
1991年、カープが優勝したシーズンが津田にとって最後の年となりました。津田はシーズン前から異変がありました。3月のオープン戦の時、私に「先輩、今年の風邪はなかなか治らないですね、頭が痛いです」と言ってきました。後で彼の奥さんに聞けば「今日は頭が痛くて行きたくない」と言っていたようです。あのシーズン、山本浩二監督は大野(豊)と津田のダブルストッパー構想を持って臨みました。
そして4月14日、旧広島市民球場での巨人戦が最後の登板となりました。先発の北別府は8回まで無失点。1対0でリードした場面で津田がマウンドに上がりました。彼はいつもブルペンから走ってマウンドへ向かっていましたが、その日も何事もないかのように走って出てきました。ただ、投球練習で球を受けた際「なんか今日は球が来てないな……」と思いました。最初の打者にライト前にヒットを打たれ、次の打者は死球でノーアウト一、二塁。
この場面で原辰徳を迎えたわけですが、2球目をワンバウンドでパスボールとして二、三塁になってしまいました。そして最後に投げた球はストレートでしたが、レフト前に弾き返されて同点。そこでマウンドを降りました。後から聞けば、降板直後に津田はベンチ裏で「もう投げられない! もうダメだ!」と言っていたそうです。
この日も頭痛を抱えていたと思うのですが、そんなそぶりも見せていませんでした。私はその状態に気づけなくて情けなく思いましたが、それを周囲に気づかせなかったのでしょう。今思えば、あの状態で投げたことが信じられないですし、武士道精神というか、最後まで彼の精神力はすごかった。恐怖感もあったでしょうし、それを悟られないように仕事を全うしていた。思い返してみれば、彼の精神力の強さというものを改めて感じます。
津田が離脱後、大野が1人でストッパーを務めることになりました。そして「津田のために」という強い思いでチームは戦っていきました。旧広島市民球場での阪神戦で優勝を決めたのですが、最後のマウンドは抑えの大野でした。最後の打者を迎えたとき、私も大野も津田を思い浮かべて、ストレートで三振を取りにいきましたが……ボールになり、最後は変化球で三振でした(苦笑)。
1991年、津田と大野のダブルストッパーで戦っていたら、どんなにすごかったのだろうと思います。「剛の津田、柔の大野」という感じで、カープファンのみなさんも見たかったでしょうし、私も受けていたかったです。
津田にも大野にも共通して言えることですが、やはり優しさです。津田は誰に対しても本当に優しかったですよ。達川の悪口は時々聞きますが……(笑)、津田の悪口は一切聞いたことはありません。彼は何があっても人を責めることはなかったです。ですから、我々捕手はもちろんですが、ブルペン捕手のみなさんに対してもすごく優しかったです。やはり、球を受ける捕手がうまく受けてくれないと勝てないという事です。それを教わりましたよね。本当に素晴らしい人間性を持っていたし、いろんな事を教えてもらった可愛い後輩でした。
■達川光男(たつかわ・みつお)
1955年7月13日、広島県出身
1977年ドラフト4位で東洋大からカープに入団。1980年代から1990年代のカープ黄金期に正捕手としてリーグ優勝3回、日本一1回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回に輝いた名捕手。1992年限りで現役引退後はダイエー、カープ、阪神、中日、ソフトバンクなどでコーチを歴任。1999年から2年間はカープ一軍監督を務めた。現在はプロ野球解説者として活躍している。