1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。没後32年、33回忌を迎えた今年、改めて津田氏が残した功績を関係性の深いOBのエピソードとともにお届けする。

 1984年にカープに移籍して津田恒実氏と出会い、チームメートとなった森脇浩司氏。同い年の親友として苦楽を共にし、カープを離れた後も交流は続いた。津田氏が病に倒れた際には、連日福岡の病院に駆けつけて共に闘った。親友・津田氏との別れから32年。改めてその思いを聞いた(全2回/第1回)

マツダスタジアムに設置されている津田プレート

毎年7月20日は特別な日

 津田が亡くなってから、今年で節目の33回忌を迎える年です。一言で「もう32年も経ったのか」という印象です。

 彼と出会ったのは、1984年に私がカープに移籍した23歳の時です。そこでチームメートになり、友達・親友としての関係となりました。その期間で言うと約10年ぐらいです。その10年間全ての出来事を鮮明に覚えているわけではないのですが、私にとっては非常に濃い10年間でした。繰り返しになりますが、今は本当に『昨日の事のように……』という表現となります。

 1993年7月20日が彼の命日です。毎月20日が訪れるわけですが、僕にとっては、毎年7月20日だけは特別な日になります。日頃からカープ時代の夢を見る度に、まずは津田のことを思いますし「いつも夢に出てきてくれよ」と、そんなことを強く願ったりします。普段から夢を結構見るのですが、なかなか津田は夢にも出てきてくれません。「お前が俺のことを思い出すくらいなら、もっと頑張れよ」と、津田はそんな事を私に言いたいのかなと思ったりします(笑)。

 私自身、プロ野球界に長くお世話になり、現在も社会人野球でご縁をいただいていたり、人生は人との縁で成り立っていると思っていますが、津田との縁は忘れることのできない貴重なご縁です。未だに野球ファンの方のみならず、たくさんの方々から「津田さんから勇気をもらった」という言葉を聞くと、友達の1人として本当にうれしく思います。

 津田が闘病している当時、私は福岡ダイエーホークスでプレーしていて、彼は福岡の病院に入院していました。必死に病気と闘う苦しい時間があった中で、私は連日病院に訪れていたのですが、そういう時間を共有して、多くのことを学ばせていただきました。闘病中に一緒に過ごした時間というのは、決して望んだ時間ではありませんが、非常に濃い時間でした。