プロ野球の世界のみならず、アスリートにとって『背番号』は時に選手の代名詞となるなど、大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手たちの足跡を背番号と共に振り返る。今回は、背番号『5』を取り上げる。

現在はロッテ一軍打撃コーチをつとめている栗原健太

◆カープで153本塁打を放ったスラッガーも背負った『5』

 1955年のルーキーイヤーから1969年の引退まで『5』を背負い続けたのが、藤井弘だ。ノンプロからカープに入団し、旧広島市民球場のオープンと同じ1957年にレギュラーに定着。二軍時代にはカーブが打てず、海に飛び込むことすら考えたほどだったというが、1957年以降はクリーンアップの一員となり、二桁本塁打も10回記録するなど低迷期の球団を支えた。今もたびたび話題になる長嶋茂雄の“幻の本塁打”で、一塁ベース踏み忘れをアピールした“立役者”でもある。

 背番号『5』を背負い、40本塁打を放ったのが1977年から3年間在籍したギャレット。1978年にカープの助っ人外国人として初めて40本塁打をマークすると、同年のオールスターゲームでは、地元・広島開催で3本塁打を放つ活躍も見せた。また外野手や一塁手だけではなく捕手としての出場もあるという、ユーティリティーな一面もあった。

 1992年のルーキーイヤーから2004年まで13年間にわたって『5』を背負い、前述の藤井以来、長期にわたり背負ったのが町田公二郞だ。2004年限りで阪神に移籍するまで代打として勝負強い活躍をみせた。

 その後1年の空白期間を経て、2006年からは栗原健太が『5』をつけることになる。入団時は『50』を背負っていたが、プロ7年目に『5』に変更。新井貴浩がFA移籍で抜けた2008年には、開幕から全144試合で4番を務めた。旧広島市民球場のラスト本塁打、マツダ スタジアムの初本塁打をともに放つという記録も持っている。

 栗原の移籍後は外国人のルナとペーニャが1年ずつ、そして1年のブランクを経て、2019年から『5』を背負ったのが、長野久義(現・巨人)だ。2019年1月7日にFAで巨人に移籍した丸佳浩の人的補償としてカープへの移籍が決定。巨人のビッグネームの加入に衝撃が走った。2022年に長野が無償トレードで巨人に復帰してからは、西川龍馬(現・オリックス)がその番号を引き継いだ。

 そして今シーズンからは小園海斗が背番号『5』を背負い、チームの中心として躍動している。

【背番号『5』を背負った主なカープ選手】
藤井弘(内野手/1955年-1969年)
ギャレット(外野手/1977年-1979年)
町田公二郎(外野手/1992年-2004年)
栗原健太(内野手/2006年-2015年)
長野久義(外野手/2019年-2022年)
西川龍馬(外野手/2023年)
小園海斗(内野手/2025年〜)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。