2025年、カープは赤ヘルとなり50周年を迎えた。長きにわたる歴史のなかで、多くのカープファンに愛され、数々の名試合が生まれた場所が旧広島市民球場だ。

 ここでは、カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちが語ったエピソードを紹介。今回は、マツダ スタジアム開場の前年、野村謙二郎氏が語っていた旧広島市民球場への思いをお届けする。(広島アスリートマガジン2008年10月号掲載記事を再編集。表現・表記は掲載当時のまま)

カープファンに多くの感動を与えてきた、懐かしの旧広島市民球場

◆選手たちに目に見えない力を与えてくれた、『家』のような場所

 入団発表を終え、初めてグラウンドを見た時には「俺もここでプレーできるんだ。早くユニフォームを着てこのグラウンドに立ちたい」と強く思いました。そして、それから17年間プレーした広島市民球場には数え切れないほどの思い出が詰まっています。

 1991年の優勝や2000安打達成、そして引退セレモニー。もちろん良い思い出ばかりではなく、エラーをしたり、全然打てなかったりといった苦い思いもたくさんしました。古い言い方かもしれませんが、この球場で血と汗と涙を流してきたのです。実際にケガもして血を流し、悔し涙も流してきました。

 そういった選手たちの一挙手一投足、全てのプレーを見守り続け、そして目に見えない力を選手たちに与えてくれていた球場だと思います。

 最も印象に残っているのは、やはり入団3年目の初優勝です。

 シーズンも終盤になり、多くのカープファンが集まる広島市民球場で優勝を決めたいという共通意識が、選手全員にありました。そのため、ダブルヘッダーの初戦に敗れ臨んだ2戦目は、勝たなければ優勝を決められないという異様な緊張感に包まれていました。

 1点リードの最終回に大野(豊)さんが最後の打者を三振に仕留めて優勝が決まった瞬間は、喜びよりもプレッシャーから解放された気持ちが先に出ました。優勝決定直前の記憶があまりないほどの緊張感に包まれていましたから。ただ、キャンプから厳しい練習を積み、コーチ陣から怒られながらも懸命にプレーしてきた辛い思いもあの瞬間に全部吹き飛びました。

「こんなにうれしい瞬間だったら、いくら苦労してもいい」とすら思ったほど感動しました。そしてその後、広島市民球場のグラウンドで行われたビールかけはどこの球団もやっていないですし、今でもあのシーンを見ると、あの頃の喜びが甦ります。

 私は、入団時から「自分のプレーを見て、ファンの方が明日も頑張ろうと思ってくれるプレー」をテーマに掲げてやってきました。

 街でファンの方に声をかけてもらうことでその思いはさらに強くなり、プレーで恩返しできればと強く思うようになりました。そういった意味でも、2000安打という記録を広島市民球場で達成できたことは本当にうれしく思っています。当然ですが、一番多くのヒットを記録した球場ですし、それまで一番多くの声援をいただいてきたファンのいる球場だったので、『節目となる1本は地元・カープファンの前で』という強い気持ちがありました。

 引退試合もそうでしたが、私のために多くのファンが球場に詰め掛けてくれたということは、自分のやってきた野球がファンにしっかり伝わっていたんだということが分かり、うれしくなりましたし、感動しました。そういったファンの存在は私の人生の財産となり、ずっと胸の中にあります。

 広島市民球場は、カープ選手、カープOBにとっては『家』のようなものです。完成から51年目(2008年の取材当時)。老朽化が進んでいるとはいえ、その家がなくなるのは、とても寂しいものです。

 それでも選手の立場から考えると、ロッカーや相手のベンチ、控え室などが狭いことに負い目を感じることもありました。本気ではないにしろ、他球団の選手などから球場の愚痴や小言を言われると、自分たちの家を馬鹿にされているようで悔しい思いをしてきたのです。

 しかし来年には新球場ができるので、選手たちはそのことに感謝しなければいけません。新しい家へと引っ越すというだけで、これまでカープが築き上げてきたものはしっかり受け継いで、新球場でも誇りを持ってプレーして欲しいと思います。

■野村謙二郎(のむら・けんじろう)
1966年9月19日生まれ
1989年に駒澤大学からカープに入団。3年目には優勝に貢献。その後も走攻守3拍子揃った選手として一時代を築いた。2005年には球団史上3人目となる2000安打を達成し、同年引退。