2025年、カープは赤ヘルとなり50周年を迎えた。長きにわたる歴史のなかで、多くのカープファンに愛され、数々の名試合が生まれた場所が旧広島市民球場だ。ここでは、カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちが語ったエピソードを紹介。
今回は、1960年代後半のカープを支えた名投手・安仁屋宗八が語った、旧広島市民球場への思いをお届けする。(広島アスリートマガジン2008年8月号掲載記事を再編集。表現・表記は掲載当時のまま)
◆広島市民球場は、いつまでも市民の記憶に残り続けるはず
広島市民球場は私にとって、何よりの思い出です。
生活をさせてくれたところであり、今の私があるのも広島市民球場、そしてカープのおかげだと思っています。カープに入っていなければ、ここまで野球に関わる仕事ができていなかったと思いますし、広島市民にもなれていなかった。カープに入り、広島市民球場でプレーできて本当に良かったと実感しています。
入団するにあたって、当時の沖縄は、パスポートが必要でした。他球団のスカウトの人はパスポートを持っていませんでしたが、カープは当時、選手だった日系2世のフィーバー平山(平山智)さんがパスポートを持っていたんです。スカウトではないのに沖縄に来てくれたこともあり、カープ入団は、平山さんの情熱に負けたような感じでしたね。僕としては、まだプロ野球選手なんて夢のまた夢と思っていましたし、あの頃はプロ野球選手という意識もありませんでした。
契約を交わした場所は、広島市民球場の事務所でした。「ここで何年やれるか分からない。ただ、契約した1年間はここでやれるんだな」という思いでした。当時は沖縄に球場がなかったので、「ああこんな良い球場で野球をやらせてもらえるんだ」と思いました。やっぱり広島に来たのは良かったと感じました。
みんな広島市民球場を狭い狭いと言いますが、私にとってはすごく相性のいい球場でした。64年6月14日に巨人戦でプロ初勝利を挙げた試合も、9回2死までノーヒットの投球で巨人・堀内恒夫の新人14連勝を止めたのも、ここでした。この広島市民球場には、いろんな思い出がたくさん詰まっています。
中でも私が一番広島市民球場らしい思い出だと思うのは、ファンとの触れ合いです。
今でこそブルペンは、外野の室内にできていますが、私が現役の時代は外にありました。一塁側のファウルグラウンドにあり、スタンドのお客さんとの距離も近く、普通に会話することができました。夏休みになれば子どもたちと楽しく会話して、ボールをあげたり、サインをしたりと、ファンの人たちを身近に感じることができました。
ただ、広島の人たちは気性が激しく、試合に負ければ野次られ、うどんの汁から缶まで飛んできました。反対に、試合に勝てばみんなすごく喜んでくれていましたね。ファンにとっては当たり前のことだと思いますが、そういったファンと直に触れ合えたことが良かった。私個人としては、広島市民球場は元々たる募金でできたような球場なので、ファンと直接コミュニケーションができたあの頃のような雰囲気が今でもあればいいと思いますね。
正直言えば、新しい球場も今の広島市民球場の跡に建てて欲しかった。今でも本当は残して欲しいですが、こればかりは仕方のないことなのかもしれません。
ただ、今後どういう形になるか分からないですが、ブルペンにある津田のプレートは、新球場に持って行ってもらいたい。もしくは球場跡地を公園にするのであれば、その片隅でも良いから、プレートをそのまま残してもらえればと思います。
今年で広島市民球場はなくなってしまいますが、いつまで経っても広島市民の頭の中に残るものだと信じています。
■安仁屋宗八(あにや・そうはち)
1944年8月17日生。1964年にカープ入団。沖縄県出身者初のプロ野球選手。1968年には23勝を挙げるなどエースとして活躍。1975年に阪神へ移籍するも1980年に復帰。1981年の引退後は、コーチ、二軍監督を歴任。