1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。

 第2回目の特集は、カープ歴代監督のインタビューセレクション。

 広島東洋カープを牽引してきた歴代の監督たち。その手腕や采配の裏には、揺るぎない信念とカープへの深い愛情があった。ここでは、広島アスリートマガジンに過去掲載した監督たちのインタビュー、OBによる証言を厳選。名場面の裏側や選手との関係、勝利への哲学など、時代を超えて語られる言葉の数々をお届けする。

 今回は、1975年の初優勝を含む4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成した古葉竹識監督、1986年に就任1年目でリーグ優勝を果たした阿南準郎監督編(2018年4月号掲載)をお送りする。俊足とと高い守備力を武器にカープの機動力野球を支えた山崎隆造氏が当時を振り返った。

髙橋慶彦との1・2番コンビとして、古葉監督の元で機動力野球を体現した山崎隆造氏

◆威厳を感じた監督の存在感。基本の大切さを教わった

 私がプロ入りした当初の監督が古葉竹識監督でしたが、本格的に古葉監督の元でプレーしたのはプロ2年目の1978年です。右打ちだった私はスイッチヒッターに挑戦することになりましたが、進言してくれたのが古葉監督でした。すんなり左打席の感覚をつかんだ私はファームで結果を残すことができ、プロ3年目の1979年夏に一軍昇格できました。

 今でも記憶しているのは、一軍に昇格したばかりの私を巨人戦でスタメン起用し、プロ初安打を打つことができました。当時全く実績がない選手だった私をすぐにスタメン起用してくれたことは、今思い返してみてもすごいことだと感じます。

 1979年、1980年にかけて2年連続日本一を達成しましたが、この時期に古葉野球を本格的に体感し始めました。当時の古葉さんは『口数が少ない監督』という印象でしたが、若かった私はよく怒られました(苦笑)。古葉さんは私に対し、まず『目で物を言う』といった感じでしたし、そんな古葉さんに威厳を感じていました。

 普段からしっかりと一人ひとりの選手を見ている監督でしたので、私たちには練習中も試合中も絶対に気を抜けない雰囲気が常にありました。後に聞いた話では、『監督というのは選手をずっと見続けるのが仕事だ』と仰っていたようです。選手を見続けることで、ちょっとした仕草からも調子を見極めていたのだと思います。

 また古葉さんからは、基本の大事さを教わりました。『プレー中は絶対に球から目を離すな』とよく言われたことが印象深いです。古葉野球はいろんな表現がありますが、緻密に相手のミスを突き、足を使った攻めを多用して巧みに得点を奪う、そして投手を中心とした守りの野球でした。私は若い頃から足を武器とする選手だったので、起用していただいたのだと思います。

 攻めにおいて機動力を重視される采配でしたので、俊足の選手であれば、当時の私のように若手であっても『チャンスがあればフリーで盗塁を狙え』という方針。ですので、そういう状況で走らなければ、「何故走らんのだ!」と叱られることも、しばしばありました(苦笑)。