◆古葉野球の流れを継承した阿南準郎監督
1983年から私はレギュラーとして起用され、古葉監督が退任される1985年まで連続試合出場を続けました。長いシーズン、必ず痛みを抱えてプレーする時期はあります。ですが、『レギュラーとは体調が万全でなくとも、試合に出続けること』というものを言葉ではなく、起用法から教えられました。
後に今も球団で活躍するトレーナーの福永(富雄)さんから聞いた話では、私が肉離れをしていた時、古葉さんは「山崎が万全でなくとも、70〜80%の力を出せるのであればチームのためになる」と仰っていたようです。当時、私はポジション確保に必死でしたので、後にそれを聞いた時、初めて古葉さんから信頼されていたんだと実感することができました。
古葉さんがいなければ私はスイッチに転向していませんし、選手生命も短く終わっていたでしょう。私の野球人生においての恩師です。古葉さんの座右の銘に『耐えて勝つ』とありますが、正にその通りで、髙橋慶彦さん、私にしても当時実績のない若手を起用するには相当の我慢が必要であったと思います。未だに古葉さんに会えば背筋が伸びますし、何年経っても関係性は変わりません。いわば、“昔ながらの厳格な親父と息子”のような関係性でしょうね。
古葉さんが監督退任後の1986年から、長年コーチだった阿南準郎さんが監督に昇格されました。コーチ時代の印象は物腰柔らかく、優しい方というイメージで、監督になられてからも基本的に変わりませんでした。古葉さんの下に長年就いていた方で、就任会見でも古葉野球を継承すると仰っていました。それだけに自分でやりたい野球を封印されていた印象がありましたが、それは野球観が古葉さんと同じだったということでしょう。
ですが、スタメン、投手起用にしてもこれと決めれば頑固なまでに、それを押し通すなど、采配的なものは頑固さがある方で、これが阿南監督の特徴です。主力としてプレーさせていただきましたが、レギュラーの私を大人扱いしてくれた監督でもありました。
就任1年目の1986年に優勝しましたが、当時は外国人選手がおらず、純日本人チームで古葉野球を見事に継承し、勝つ野球を知っていた主力メンバーをうまく起用されていました。野球の緻密さを知るメンバーが各々の役割を遂行し、阿南さんの頑固さが上手く融合した上での優勝だったと思います。
いわゆる黄金時代と呼ばれた時代を振り返ってみれば特に古葉監督時代、コーチ陣はみなさん監督を慕っていたイメージがありました。阿南さんが監督になられて古葉野球を継承されたのも納得できます。
それだけ当時はカープ野球がはっきりしていて、選手としても先輩の背中を見て後輩が育つという伝統がありました。そして首脳陣と選手が同じ方向を見て、常に一丸だったからこそ、常勝軍団を形成できていたのだと思います。