昭和25年。原爆投下により焼け野原となった広島の地で、絶望感に打ちひしがれていた広島市民の夢や希望を背負って発足したのが『カープ』だった。

 ここでは、カープ誕生時から選手として在籍した捕手・長谷部稔氏のインタビューを再録。初の“市民球団“として誕生したカープだが、その道のりは苦難の連続だった。球団解散の危機を救った、石本秀一監督(当時)のアイデアとは。いま改めて、カープ球団の成り立ちとファンとの絆を振り返る。(『広島アスリートマガジン』2010年1月号掲載記事を再編集)

今シーズンで、球団創設77年目を迎えたカープ

◆後援会構想により、土壇場で危機を回避

 資金難に苦しんだ創設直後のカープ球団でしたが、紅白戦を行い、その入場料を運営資金に充てるなど、まさに一丸となって奔走しました。そうして資金集めをしながら試合を重ね、プロ野球球団としての形を整えて迎えた3月の開幕。地元での試合には常に2万人を超える観客が詰めかけ、内野グラウンドにロープを張ったこともありました。

 いくら負けても、みなさん応援して下さるんですよ。何とか勝って恩返ししなければならないと思っていましたが、やはり資金力に劣るので戦力も足りず、1年目の成績は41勝96敗1分と散々なものでした。

 そして迎えた2年目の2月。カープは興行収入が主な収入源でしたから、オフに入り合宿所の食事さえままならない状態が続いていました。その話を聞いた私の兄が合宿所に駆けつけましてね。

 石本監督から「飯を食うのも困るんじゃ」と相談されて、故郷・矢野での紅白戦を手配してくれたのです。地元の人が3千人以上も集まり、試合後には宴会が開かれ、すき焼きがふるまわれました。久しぶりの肉ということもあり、みんな喜んで食べましたね。

 そんな喜びもつかの間、1カ月後の3月14日、遠征費も選手の給料も出せないというのでカープが解散することが決定したのです(注1)。その時は石本監督が出した後援会構想(注2)により土壇場で危機を脱することができたのですが、その考えは矢野での経験がヒントになったのだと思います。

(注1)解散騒動。球団経営が行き詰まり、昭和26年3月14日の役員会でカープ解散が決定。しかし、石本監督の打ち出した後援会構想で決定が覆り、同23日に存続が決定。

(注2)後援会構想。ファンによる後援会を結成し、球団経営のための資金をカンパによりまかなうというもの。広島県下に約160の支部がつくられ、集められたお金は約270万円にも及んだ。​

(第3回へ続く)

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