1975年の初優勝以来、数々のレジェンドOBたちが歴史を紡いできた。ここでは、往年の名選手が、現役時代の思い出やカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』の連載『プロジェクトC』を再編集してお届けする。
ここでは、カープ投手王国のエースとして活躍した北別府学氏が、現役時代を振り返って語ったインタビューを紹介。1986年、最多勝・最優秀防御率・最優秀投手・沢村賞を総なめにした名投手が、リーグ優勝の瞬間、そして悔しさの残った日本シリーズを振り返る。(全8回/第5回)
◆プロ野球生活の中でも最高の状態を迎えていた1986年
1984年のシーズン、私は13勝8敗で4年ぶりの日本一に貢献できた。
翌1985年は16勝6敗でチームは2位。そして古葉竹識監督から阿南準郎新監督に交代した1986年、私は開幕戦で中日に勝利したが、前半戦は波に乗れず7勝3敗。しかし後半戦に入ってからは4年前に20勝した時以上に好調で、恐らく私のプロ野球生活の中で最高の状態だったと思う。
初回、あるいは2回までに味方が1点取ってくれれば、「今日は勝ったな」と思えたほどで、ボールを自分の思いのままにコントロールできたのだ。「見ていて打たれる気がしなかった」と周囲からよく言われたが、私自身もそう思えたほど自信があった。
結局、後半戦は11勝1敗で、ほとんどが完封や完投だった。捕手の達川光男さんのサインの一つ一つから、打者を打ち取るためのリードの意図が私にもはっきりと理解できていた。
シーズン終盤、カープは巨人とのプロ野球史上稀に見る熾烈な優勝争いを繰り広げた。両チームとも1敗が命取りとなる状況の中、チームは本当に一つにまとまって、力を出し切っていた。私自身も優勝争いが佳境に入った9月からは、登板した6試合は全て完投で勝った。
そして10月10日の阪神戦(甲子園)で金石昭人が完封勝ちしカープはマジックを『1』とした。ただ、残り2試合を連敗すると、既に全日程を終えている巨人の優勝となってしまう。私は優勝を懸けて、10月12日のヤクルト戦(神宮)に先発した。
カープは1回表に長嶋清幸が満塁ホームランを放つなど、9回表を終わって8-3と5点リード。あと1イニング投げればプロ初の胴上げ投手という所で、私は最終回のマウンドをこの年ストッパーを務めた津田恒実に譲った。これは試合前から私にとっても首脳陣にとっても予定通りの交代だったのだ。優勝がかかったマウンドに上った津田は、最後の打者に彼の象徴である剛速球を投げ込み、見逃し三振に打ち取った。
優勝決定の瞬間、すぐに阿南監督の胴上げが始まり、私もその輪の中に入って優勝の喜びを味わった。
2年ぶりの日本一を目指した日本シリーズは、西武ライオンズと初めて対決した。
広島市民球場で行われた第1戦に私は先発して、先に2点を奪われた。しかし9回裏に小早川毅彦と日本シリーズを最後に引退する山本浩二さんの連続ホームランで同点に追いつき、引き分けとなった。カープは翌日から3連勝したが、第5戦に工藤公康にサヨナラ打を打たれてから4連敗して、日本一を逃してしまったのである。
私はこの年最多勝と最優秀防御率となり、初のセ・リーグMVPと最優秀投手、2度目の沢村賞に選ばれた。ただ、日本シリーズでの優勝と勝ち星だけは手に出来なかった。
翌1987年は、前回タイトルを獲得した次の年の1983年が不調だったので二の舞いを踏まないように注意したつもりだったが、結局10勝14敗。特に目立った故障はなかったのだが、微妙にフォームが狂っていた。そのスランプは1988年以降も続き、1989年には1978年から続けてきた11年連続2ケタ勝利がついにストップしてしまった。気持ちばかりが焦ってしまうため、下半身がうまく使えない分フォームが崩れていき、そして1990年夏には右ヒジを痛めて、後半戦を棒に振った。
(第6回へ続く)
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