長年にわたり、カープのを支えてきた名スカウトたち。ここでは歴史をつくってきたスカウトが明かすドラフト秘話を紹介する。今回は故・備前喜夫氏の言葉で、懐かしい選手たちのドラフトエピソードを振り返る。

 現役時代は主に代打として活躍し、セ・リーグ記録となる代打本塁打20本の記録を持つ町田公二郎。アマチュア球界を代表する強打者として注目され、ドラフト1位でカープに入団した。『代打のスペシャリスト』として名を残した右の強打者獲得の裏側にあった真実とは。備前氏の語りで、当時のドラフト戦略を紐解いていく。(広島アスリートマガジン2004年3月号『コイが生まれた日』を再編集)

現在は母校・専修大の監督を務める町田公二郎氏(写真はカープコーチ時代)

◆大学時代は、金本知憲よりも評価が上だった

 カープが6度目の優勝を果たした1991年、秋のドラフト1位で獲得したのが専修大で4番を打っていた町田公二郎です。

 当時の専修大は一部と二部を行き来していたのであまり強いチームではなかったように思いますが、東都大学リーグを代表する強打の外野手として、全日本大学選抜でも4番を打っていました。ちなみにその時の3番が、カープが4位で指名した東北福祉大の金本知憲(元カープ・阪神)です。

 ただ最初に1位指名したのは、町田ではありませんでした。同じく東都大学リーグのNo.1投手、駒澤大の若田部健一(ホークス一軍投手コーチ)を指名したのです。

 神奈川県出身で在京球団希望の若田部を「将来の投手陣の柱」として強行指名しましたが、巨人・ダイエー(現在のホークス)・西武との4球団での競合となり、抽選の結果交渉権はダイエーが獲得。敗れたカープは改めて1位に町田を指名しました。俗に言う「はずれ1位」です。

 ただ、バッティングはもちろん、守備も足も評価が高かった町田を獲得できた事は、十分成功と言えるドラフトだったように思います。

 私が初めて彼に会ったのは、ドラフト指名後のあいさつの時でした。通常は野球部の寮に行くのですが、この時はJR京浜東北線の沿線にある彼のアパートを訪ねました。4年生は既に野球部の寮から出ており、町田もキャンパスやグランドから離れた街で一人暮らしをしていたのです。印象としては「おとなしい子だな」という感じでした。

 同期入団の金本とは、当初からよく比較されました。しかし当時まだ線が細かった金本と比べて、町田は筋力的にも十分プロの身体が出来上がっていました。即戦力としての評価は金本よりも町田の方が上でした。

 1年目の故障の影響で一軍デビューこそやや遅れましたが、公式戦だけで6本塁打を放つ活躍を見せました。そんな町田が最も注目されたのは、5年目の1996年の事です。前年に一軍に定着した浅井樹と共に左右の代打の切り札として、成功率は4割以上。リーグ優勝は逃しましたが、最後まで優勝争いを演じた原動力になりました。

■備前喜夫(びぜん・よしお)(旧姓:太田垣)
1933年10月9日〜2015年9月7日、広島県出身
尾道西高ー広島(1952〜1962)
現役引退後はコーチ、二軍監督を経て、1977〜2002年にかけてスカウトとして多くの名選手発掘に携わった。

カープをより深く、より熱く。日本唯一の広島東洋カープ専門誌!
2026年7月号はカープグッズ特集!『ぷっくりシール』付録つき