各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 第4回は精密機械と称された抜群の制球力を武器に、昭和最後の200勝投手に輝いた北別府学氏を取り上げる。

カープで2度、沢村賞を獲得するなどエースとして活躍した北別府学氏(2016年撮影)

◆後の200勝投手を獲得したドラフト会場でのドラマ

 初めて北別府を見たのは、13年間務めたコーチからスカウトに転身した最初の年、北別府がちょうど高校3年生となった1975年でした。「九州に北別府という素晴らしい投手がいる」。そういう話を聞いて足を運んだ鹿児島の地。それだけに、大きな期待を持っていたのですが、その期待は裏切られることはありませんでした。

 北別府の投球で最も魅力的だったのはストレートの速さとキレの良さです。「北別府はコントロールが良い軟投派投手」というイメージがあるでしょう。確かに高校時代の北別府は、コントロールも良いものを持っていました。

 しかし、そのコントロールよりも、ストレートがとにかく素晴らしい本格派右腕でした。ただ速いだけではなくキレも抜群で、打者の手元でビュッと伸びるような感じ。超一級品の球でした。ですから、「北別府は絶対にカープのエースになれる。だから何としても獲得しなければいけない選手」と思ったのです。

 また多くの高校生投手は、無駄な動作や癖があるのですが、北別府は一切なし。見ていて美しささえ感じるほどでした。

長年カープのエースとして活躍した北別府氏。

 そんな投手でしたから、ドラフトで指名できるかどうかは、とても心配でした。当時のドラフトは、現在の仕組みと大きく異なり、まず最初に指名する順番を決める抽選を行ったあと、その順番に従って1人ずつ選手を指名するというシステムでした。

 そのため、1位指名選手に関してはいかに小さい数字を引くか、が大きなポイントでした。そして、カープが引いた数字は…、まさかの『10』。「甲子園には出場していないが全国でも指折りの好投手である北別府が、10番目まで残っているはずがない…」。その数字を見たとき、私はこう思い、正直、北別府の指名を諦めてしまいました。

 しかし、1番目、2番目、3番目の球団……、と指名が進んでも北別府の名前を書いたチームはありませんでした。そして9番目のチームもなし。ついにカープの番になったのです。

 私たちは迷うことなく書いた「北別府学」という紙を、ドラフトの係員に渡しました。それは念願叶って、北別府を指名できた瞬間でした。そのときのうれしさと「やったぞ。獲得できた!」という思いは、今も忘れることができません。

200勝を挙げ、名球会のブレザーに袖を通している

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【北別府学】
1957年7月12日生。鹿児島県出身。1975年ドラフト1位でカープに入団。1年目から白星を挙げると、プロ3年目には初の二桁勝利を達成。その後も長きにわたり先発ローテーションの柱としてカープを支えた。最大の武器は“精密機械”と称された、その緻密なコントロール。1982年、1986年に沢村賞を受賞。1992年には球団史上初の200勝を達成した。
通算成績は515試合 213勝 141敗 5S 3113回 防御率3.67