各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 今回は、1976年のドラフト1位で地元・崇徳高からカープに入団。走攻守三拍子そろった野手として、5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した山崎隆造の入団秘話をお送りする。

現役時代はスイッチヒッターとして活躍し、カープの機動力野球に欠かせない存在だった山崎隆造氏。引退後は二軍監督などを務め、後に一軍で活躍する数々の主力選手を育て上げた。

◆大学進学を考えていた彼をなんとしても獲得したかった。どうやって口説き落とそうかと必死で考えました。

 2006年現在で、カープに所属している地元広島出身者は、新井、永川、梵の3名です。しかし私がスカウトを務めていたころは、今よりも多くの広島出身者がカープに籍を置いていました。それは当時のドラフトの基本方針が、地元の選手をできるだけ多く獲得しようというものだったためです。市民球団として誕生したカープですから、チームをそして広島を盛り上げるという意味でも、地元選手の獲得には力を注いでいました。

 そして、その一人が崇徳高校から入団した山崎隆造です。

 私が山崎を初めて見たのは彼が高校1年生のときでした。しかし、その頃はこれといってすごいというものはなく、ごく普通の選手だったと思います。頭角を現してきたのは2年生の秋、3年生が引退して新チームになった頃です。走攻守、三拍子揃った選手としてスカウトの間で評判になったのを覚えています。

 走攻守の中で最も優れていたのは守備力です。当時ショートを守っていた山崎は、非常に守備範囲が広く、三遊間の深い当たりでも難なくさばいていました。加えて強肩だったのでそこから一塁へ矢のような送球。今でもその光景が目に浮かぶほど素晴らしい守備でした。

 走塁は入団当時の髙橋慶彦ほどの脚力はありませんでしたが、それでも全国でトップクラスの俊足を誇っていたと思います。そして最後に打撃ですが、バットで球を捕らえるミート力は素晴らしいものでした。

 立浪(元中日)のようなバットを球に対して最短距離で出すコンパクトな振りから二塁打を狙う。そういうタイプだったと記憶しています。

 ただ、身体があまり大きくなかったこともあり、パンチ力には今ひとつ物足りなさを感じました。しかし、パワーというものはプロに入ってからいくらでもつけることができるためそれほど大きな問題ではありませんでした。

 また、山崎は3年時にキャプテンとしてチームをセンバツ甲子園大会優勝に導きました。そういうキャプテンシーというものも、私たちカープは大きく評価していました。

 そんな山崎に声をかけたのは夏の甲子園大会が終わってからでした。そのときのカープは、内野手の強化が最重要課題だったため、山崎のように広島出身でしかも素晴らしい能力を持った選手は喉から手が出る程ほしい存在だったのです。しかし、学校に出向いたところ、「山崎は東京の大学に進学を希望してる」と聞かされました。ですから私たちは何とかして彼を口説き落とそうと必死になったことを覚えています。

 何度も電話をしましたし、当時チーフスカウトを務めていた木庭さんと一緒に家に出向いたこともありました。山崎が退部届けを出したと聞けば、直接会って「どうしてもカープは君がほしい。ぜひ来てくれ」とも話をしました。そうしてなんとかドラフトでの指名にこぎつけることができたのです。

 カープ入団後、山崎は古葉監督の一言からスイッチヒッターへの転向を決意します。私は山崎から「左でも打ちます」と聞かされたとき、「とにかく叩きつけてゴロを打て。そうすれば、お前の足なら内野安打も出てくる。もし、フライを上げたら罰金を取るぞ」と言って、気を引き締めたこともありました。そしてこの決断が彼の野球人生を成功へと導いたのです。

 1983年からは3年連続で3割を記録。その後は体力の低下などで一時成績が振るわない年もありましたが、1991年に再び3割に到達しリーグ優勝に大きく貢献しました。また守備では内外野をそつなくこなしユーティリティープレーヤーとしてゴールデングラブ賞を4回獲得。ベストナインにも3度選出されるなど、プロでも走攻守三拍子揃った選手として活躍しました。

 ただ、そんな素晴らしい成績を残した山崎に心残りがあるとすれば、それは入団4年目の1981年に外野フェンスにぶつかり両膝の皿を割ってしまったことです。もしこのケガがなければもっと素晴らしい選手になっていたに違いありませんから、熊本の病院で過ごした5ヵ月間は本当にもったいなかったと思います。

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【山崎隆造】
1958年4月15日生、広島県出身。崇徳高-広島(1977年ー1993年引退)。1976年ドラフト1位でカープに入団。1978年に当時の古葉監督の薦めもあり、スイッチヒッターに転向。背番号1を背負った1983年からレギュラーに定着し、その年から3年連続で3割を記録。1984年からは6年連続で全試合出場を果たした。5度のリーグ優勝・3度の日本一に貢献し、ベストナインを3度、ゴールデングラブ賞を4度獲得。1993年に現役を引退すると、1994年から2011年まで、カープで二軍監督、一軍コーチなどを務め、若手育成に貢献した。