◆決め手となったのは、『地元・広島出身』
また、シュートが素晴らしかったことに加え、小林が地元広島出身だったことも指名の大きな決め手となりました。当時のチーム方針は、地元広島を含めた中国地方、そして準地元であった九州の選手から獲得しよう、というものでした。
カープは市民球団ですから、まず広島の人が応援したくなるというか、愛着を持ってもらうことが一番大切だと考えられていました。そのためにはやはり地元出身の選手の獲得は不可欠なものでした。だから、この年もそうですが、ドラフトでは必ず先ほど挙げた地域から選手を指名していたのです。
プロ入り後の小林はケガに泣かされ続けた選手でした。入団してすぐに肘を故障し、4年目には肩までも痛めてしまいました。そんな小林がプロで成功したのは、やはり魔球『パームボール』があったからでしょう。
肩をケガする前年、小林はアメリカの教育リーグに参加しました。そこで現地のコーチからアドバイスを受け、フォークやチェンジアップなど様々な落ちる球を試し、習得に向けて試合に臨んだのです。その中で、メジャーリーグを目指す選手達に通用したのが、親指と小指で球をはさみ、球離れの際に抜くように投げるパームボールでした。
そのパームボールを操れるようになった小林は、1980年オフに西武へトレードされてしまいますが、1984年カープに復帰します。そして、55試合に登板し11勝4敗9セーブと大車輪の活躍で、リーグ優勝に大きく貢献。日本シリーズでも活躍し、日本一の獲得の立て役者となりました。
小林が投げる魔球・パームボールは、実にきれいな軌道を描いていました。手から放れた瞬間にフワッと浮き上がり、打者の手元で一旦停止したように見えてからストンと落ちる。打者の視覚を幻惑し、見るものに美しさを感じさせたその球に、私は見入ってしまったことを覚えています。
しかし、パームボールの投げ過ぎで小林の肘は悲鳴を上げてしまいました。
シュートよりも肘に負担がかかるパームボール。ましてこれまで肘を故障したことがある小林ですから、肘へのダメージは他の選手よりもかなりのものだったと思います。結局、小林はパームボールで選手生命を縮めることになりました。
しかし、パームボールを武器に西武とカープで2度も胴上げ投手となりました。もし、パームボールがなければ、きっとこのような成績を残すことはできなかったでしょう。
引退が決まり現役最後の1球に小林はパームボールを投げました。
そういう意味でも、パームボールが現役生活にピリオドを打つことになったことに対して、きっと小林は後悔していないはずです。
【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。
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