◆もっとも印象に残っている相手投手は『巨人の三本柱』と呼ばれたあの選手
初の開幕投手となった1985年も、10勝7敗、防御率4.06。やはり終盤に2セーブを挙げている。 古葉監督が勇退し、阿南準郎新監督で臨んだ1986年は夏場に左肩不調で登録抹消となった。
初の長期離脱でリハビリに専念中のある日、気分転換に山根に「鯉が釣れるからコイ(笑)」と誘われて太田川へ夜釣りに出かけた。「鯉(カープの選手)が鯉を釣っちゃいけないだろ(笑)」と言いながら、夕涼みがてら楽しんだ。
チームは巨人との熾烈な優勝争いを展開していたが、9月24日、後楽園球場での直接対決で、私は約2ヵ月ぶりに先発して勝利投手となった。そしてカープは奇蹟の逆転優勝を果たした。しかし西武との日本シリーズでは、3連勝の後まさかの4連敗。この年限りで山本浩二さんが、翌年には衣笠祥雄さんが現役を引退した。私も既に30歳を過ぎていたが、この頃から先発投手としてのピークを迎える。
1987年は13勝5敗で防御率2.93。1988年は13勝7敗で防御率1.70で最優秀防御率となり沢村賞を頂いた。
1989年は8勝6敗で防御率1.92。 特にこの年は自分でも最高の年で、打たれる気がしなかったのだが、思ったほど勝てなかった気がしている。
私がこれまで投げ合った投手で、やはり最も印象に残っているのが巨人の槇原寛己である。9回を終わっても0−0で、延長戦で私が先に失点して敗れた試合が多かったと思う。彼との勝負ではとにかく分が悪かった。
ところが1990年になって、自分のピッチングに変化を感じ始めた。それまでは先発したら9回を投げ切って当たり前と思っていたのに、その年には1イニングずつ投げること、あるいは5回まで投げることが肉体的に長く辛く感じられるようになったのだ。後半戦に入った夏場に、私は山本浩二監督に「もう先発では無理です。リリーフに変えて下さい」と直訴した。監督は私の願いを受け入れ、秋口から暫定的に抑えとなった。そして1991年は、故障から回復しつつあった津田恒美との二人の抑えでシーズンを迎えた。
(第8回へ続く)
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