◆「このままでは終わってしまう」危機感から始まった新球習得

 しかし30歳となった1989年頃から、それまでは空振りやファールチップにしかならなかった高めのストレートが、完璧に捕らえられるようになってきた。

 故障は特になかったが、身体全体に力が無くなっている感じで、球数が増えてくるにつれて身体が何となく苦しくなっていた。「このままでは野球人生が終わってしまう」と思った私は、もう一つ球種を増やそうと考えた。

 左の先発投手は、右打者との対戦を想定して持ち球を磨いていく。私のような力投派に対して右打者は約70%の確率で内角ストレートに的を絞ってくると思われるので、140キロ台のストレートと120キロ前後のスクリューボールの中間の速さで胸元に食い込む130キロ台の、今で言うカットボールが最も有効ではないかと考えた。

 そこで1990年に達川光男さんに何球か受けてもらったが「この球は使えん」と言われた。しかし私は「まだ実戦で通用するレベルでないのは、十分わかっています。何とかこの球を自分のものにしたいので試合で使わせて下さい」と改めて頼んだ。すると達川さんはこう言って了承してくれた。

 「ストライクはダメで。ボール球じゃないと使えんど」

 そして1991年からは、カットボールを決め球としても使うようになった。この球は、最初はストレートと同じ軌道だが、右打者の場合打ちに行った瞬間にひざ元で突然消えるように落ちるのが特徴である。

 優勝を争った中日打線の一人である彦野利勝が、試合後に「川口さんのボールが突然消えた」と言ったという。それを新聞で知った私は彼が「消えた」と表現した事で「よしよし、このボールは使えるぞ」と自信を持った。達川さんも、徐々に困った時はそのボールしか要求しなくなっていた。

 この年私は自己最多の230奪三振で、3度目のセ・リーグ最多奪三振投手に輝いた。過去2回がストレートとカーブによるものに対し、この年はカットボールで奪った三振が約100個と半分近くを占めていた。

(第6回へ続く)

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