2020年は堂林翔太“覚醒”のシーズンになったと言っても過言ではない。開幕序盤から安打を量産し、8年ぶりに規定打席に到達するなど、最後までレギュラーとして活躍。期待されながらも結果を残すことができなかった男が、プロ11年目で見事な復活劇を見せつけた。

 11年目の覚醒を見せファンを魅了した、堂林翔太のこれまでの軌跡を、当時の本人の言葉とともに辿る。今回は背番号7を背負い迎えた2013年からの2年間に焦点を当てて振り返っていく。

背番号7で迎えた堂林翔太選手の2013年シーズン。飛躍が期待されたが、不振の末、負傷による途中離脱でシーズンを終えることになった。

◆長いトンネルに迷い込んだプロ4年目のシーズン 

 首脳陣もファンも待ち望んでいたプロ3年目でのブレイク。2012年、堂林翔太は、チームでただひとり全試合に出場し、本塁打はチーム最多の14本を記録。シーズンオフには野村監督が現役時代に背負っていた背番号「7」を譲り受け、名実ともに“カープの顔”となった。

 そして迎えた2013年。さらなる飛躍が期待された堂林だったが、開幕から一向に調子が上がらなかった。5月26日には連続試合出場がストップし、打率も2割台前半に低迷。出口が見えないトンネルでもがき苦しむ日々が続いた。

「苦しいですね。今年はたとえ良い当たりをしても野手の正面を突くことが多いように感じますし、ツイていない打席があります。ただ、全ては自分の打ち方が悪いから野手の正面に行くのだと思いますし、(バットへの力の)伝わり方が悪いので、打球がもうひと伸びしないんだと思います」

 堂林の不振の理由の一つとして考えられたのが“確立しない打撃スタイル”だ。

 春季キャンプから打撃の形が安定せず、シーズンに入ってもスタンスの角度やグリップの位置が日によって変わる状態が続いた。より高みを目指すために試行錯誤を続け、その結果、打撃スタイルが毎日変わり、納得のいく形を確立できないままシーズンを戦うことになった。

「1月の先乗り自主トレのときから東出さんに『打撃が毎日変わっている』と指摘されていました。自分では同じようにやっているつもりでも、周りから見ると変わっているということは安定していないということ。自分でも分かってはいるんですけど、形にこだわり過ぎているんだと思います。『今日はこっちの方がバットが出るな』とか『この辺に(グリップを)置いた方がバットは出やすいな』とか打撃が日替わりになってしまっています」

 不振脱却に向け、地元での試合日には試合前後にそれぞれ200から300球のスイング量をこなすなど、必死に結果を求め続けた。

「正直、『これだけやってもダメなのか』と思うこともあります。ああでもない、こうでもないといつも考えています。ただ、あれこれ考えていなかったら打てているんじゃないかと思うこともあります。考えないことが、今できないんです。何でなのか分からないのですが考えてしまうんですよね」

 8月20日の中日戦(長良川球場)、結果を求めてもがき続ける堂林に予期せぬアクシデントが訪れた。死球を受け、左手を骨折。そして、この試合が堂林にとって2013年最後の一軍での試合となった。

 このシーズン、105試合に出場し、打率.217・6本塁打・41打点。2012年を下回る成績で飛躍を期待されたシーズンを終えることなった。

 堂林が離脱した後の9・10月のチーム成績は16勝9敗。皮肉にも離脱後に大きく勝ち越した結果、初のクライマックスシリーズ出場を決めた。