2020年限りで、19年の現役生活に幕を下ろした石原慶幸。時間がかかると言われるポジションながら、プロ2年目から100試合以上に出場。そこから激しいライバル争いを制し、カープの正捕手として長らく投手陣を支え続けた。ここでは一軍の中心選手としてチームを牽引した2008年から、そしてカープが徐々に力をつけていく2010年代中期までの活躍を追っていく。

◆高い守備力を武器に広島の本塁を死守

 2004年に正捕手の座を奪取した石原だったが、2000年代中盤は、倉義和(現一軍バッテリーコーチ)との一進一退のスタメン争いを繰り広げていた。

 

 その風向きが変わったのが2008年。開幕からバットでも数字を残し、123試合に出場。さらには監督推薦で初のオールスターゲーム出場を果たす。当時のセ・リーグは阿部慎之助(巨人)、谷繁元信(中日)など、後に球史に名を残す捕手たちが在籍していたが、石原自身も球界一と表されたキャッチング技術で、存在感を示していた。事実2009年開幕前のWBC日本代表への選出、カープでのキャプテン就任、さらには初のファン投票でのオールスター選出など、実力派捕手として、その名を知らしめていった。

 
 

 2010年にはマーティー・ブラウンから野村謙二郎へと監督が交代。チームの方針は大きく変更されたものの、石原自身は正捕手の座をがっちりとキープ。チーム防御率はリーグ5位の4.80と低迷したが、自身初のタイトルとなる最優秀バッテリー賞を当時のエースでありこの年15勝をマークした前田健太と共に受賞するなど、大胆なチーム改革で若手を積極起用していった野村カープを、屋台骨として支える存在として輝きを見せていた。

 またこの年国内FA権を取得し、その動向に注目が集まったが、権利を行使せずカープと3年契約を結んだ。

2010年には前田健太と初の最優秀バッテリー賞を受賞した。

 円熟味を増していた2000年代から2010年代にかけて、打撃面では決して際立った成績を残したわけではなかったが、ここ一番での勝負強さは随一。2009年から6年連続で自身のプレーでサヨナラ勝利を手繰り寄せるなど、ファンの記憶に残る活躍を見せていた。

 
 
 

 数々のライバルたちと激しいレギュラー争いを演じてきた上で、正捕手の座を守ってきた石原だったが、2014年には、持ち前の打力を武器に會澤翼が台頭。7月以降は會澤がスタメンマスクを被る機会も増え、高校卒業後長い下積みを経て実力をつけた当時26歳の若手捕手から、強烈な突き上げを受けることとなった。

 

(part3に続く)