背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

即戦力を期待されドラフト1位指名された栗林良吏投手。春季キャンプで力強い投球を披露している。

 偉大な選手がつけていた背番号を受け継ぐのは光栄であるとともに重圧を伴うことでもある。場合によっては、その重圧が選手生活に影響を及ぼしてしまうこともあるだろう。だが、それに負けずにしっかりと成績を残し、その番号をさらに大きなものにする例も存在する。

 カープで言えば『20』がまさにそういった背番号だ。偉大な先人とは言うまでもなく、球団初の200勝越えを達成した北別府学。そしてそれを受け継いだのは球団史上最多の165セーブを達成した永川勝浩だ。

 1950年の球団創設時から一貫して投手がつけている『20』だが、“初代”は1960年に西鉄から移籍した河村英文(63年に久文に改名)。移籍早々のアクシデントで負傷し、期待されたほどの活躍はならなかったものの、この年4勝のうち3勝を巨人から奪い、対巨人戦の切り札として名を馳せた。

 北別府の入団はそこから12年後の1975年。プロ3年目の1978年に10勝を挙げると翌1979年には17勝し、エースとしての地位を確立。ボール半個の出し入れができるという絶妙のコントロールを武器に活躍を続け、1982年には20勝、1986年は18勝で最多勝を獲得した。

 2度目の1986年は、北別府自身が最高のシーズンとして挙げた年だ。前述の最多勝のほか、最優秀防御率、最高勝率などのタイトルを総ナメにし、球団を4度目の優勝に導いてMVPも獲得。沢村賞、ベストナインも独占する圧巻の内容を残してみせた。

 その北別府が213勝を挙げて1994年に引退すると、そこから8年のブランクを経て『20』をつけたのが、球団初の自由獲得枠で入団した永川勝浩だ。亜細亜大時代から150キロの速球でスカウトの注目を集めていたが、この背番号提示には球団の期待が見て取れる。

 果たしてその期待に応えた永川は翌2003年の初登板で初セーブを記録し、この年25セーブをマーク。新人としては球団最多という大活躍を見せた。一時不調に泣かされ中継ぎに降格された時期もあったが、2006年から抑えとして復活。2007年から2009年にかけては球団新となる3年連続30セーブを記録し、2009年には球団初、史上7人目の150セーブも達成した。

 2019年限りで引退した永川の後を引き継いでいるのが、翌2020年ドラフト1位で入団した栗林良吏だ。前年の1位入団でセ・リーグ新人王を獲得した森下暢仁に続いての即戦力右腕として、1年目からフル回転の活躍が期待されている。

「北別府さんや永川さんのように、チームの顔と呼ばれる選手にならないといけないと思っています。そして1.5倍増しのプレッシャーを感じています。このプレッシャーを良い方向に変えられるように頑張りたいですね」

 背番号についてインタビューでも、このように語っている栗林。先人たちのプレッシャーに負けず、背番号『20』の歴史を塗り替えてほしい。