背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

今年も一軍春季キャンプスタートとなった中村奨成選手。

 今回取り上げる背番号『22』は1950年の球団創設以来、1シーズンも途切れることなく使われてきた番号で、最も多いポジションは投手。次が捕手で、ものすごくザックリ言うなら“バッテリーの番号”と言えそうだ。

 1960年から『22』を背負った大石清は、そのルーキーイヤーから9勝を挙げて頭角を現し、翌年からはスライダーとストレートをうまく織り交ぜた配球で3年連続で20勝するなど活躍しエースとなった。彼のストレートは“カープ史上最速”と称されたほどだった。

 1966年限りでトレードにより阪急に移籍したが、1970年の引退後、1977年から1981年には投手コーチとして再びカープのユニホームを着ると、2度の日本一に尽力した。

 大石から『22』を受け継いだのが、プロ3年目で巨人から移籍してきた宮本洋二郎だ。入団当初は先発として起用されたが、やがて制球の良さを買われて救援役に回ることに。1970年には自己最多の38試合に登板するなどした後、1973年限りで南海に移籍。翌1974年シーズンで引退後、1982年にカープに復帰し、投手コーチやスカウトを務めた。

 1952年の塚本博睦を除き、宮本までの23年間は投手が背負ったが、次の持ち主は初めて捕手となった。1974年から水沼四郎がそれまでの『39』から『22』に変更したためだ。1968年ドラフト2位で入団すると初年から一軍に定着し、1971年には正捕手の座を獲得。藤本和宏とのバッテリーではノーヒットノーランも達成した。

 強気のリードと“ささやき戦術”による心理作戦で投手の信頼も厚く、“流しの四郎”と呼ばれたバッティングや走塁でも活躍。『22』を背負っていた1979年の日本シリーズ第7戦では、球史に残る“江夏の21球”の場面でも捕手を務めている。