◆後援会構想により土壇場で危機を回避

 そうやって資金集めをしながら試合を重ね、プロ野球球団としての形を整えて3月の開幕を迎えました。地元での試合には常に2万人を超える観客が詰めかけ、内野グラウンドにロープを張ったこともありました。いくら負けてもみなさん応援して下さるんですよ。何とか勝って恩返ししなければならないと思っていましたが、やはり資金力に劣るので戦力も足りず1年目の成績は41勝96敗1分と散々なものでした。

 そして迎えた2年目の2月。カープは興行収入が主な収入源でしたから、オフに入り合宿所の食事さえままならない状態が続いていました。その話を聞いた私の兄が合宿所に駆けつけましてね。

 石本監督から「飯を食うのも困るんじゃ」と相談されて、故郷・矢野での紅白戦を手配してくれたのです。地元の人が3千人以上も集まり、試合後には宴会が開かれ、すき焼きがふるまわれました。久しぶりの肉ということもあり、みんな喜んで食べましたね。

 そんな喜びもつかの間、1カ月後の3月14日、遠征費も選手の給料も出せないというのでカープが解散することが決定したのです(注1)。その時は石本監督が出した後援会構想(注2)により土壇場で危機を脱することができたのですが、その考えは矢野での経験がヒントになったのだと思います。(続く)

(注1)解散騒動。球団経営が行き詰まり、昭和26年3月14日の役員会でカープ解散が決定。しかし、石本監督の打ち出した後援会構想で決定が覆り、同23日に存続が決定。

(注2)後援会構想。ファンによる後援会を結成し、球団経営のための資金をカンパによりまかなうというもの。広島県下に約160の支部がつくられ、集められたお金は約270万円にも及んだ。