◆大学野球界の名門を経てカープ入り

 その後、石原は金本知憲(元広島、阪神)など、多くのプロ選手を輩出している東北福祉大へ進んだ。全国から個性的な選手が集まる名門野球部でもあり、高校のときとはまた違った競争社会の空気があった。

 チームは全日本大学野球選手権や明治神宮大会の全国大会に出場し、石原も捕手としての実力を発揮。4年生のときは主将も務め、2001年11月のドラフト会議ではカープから4巡目指名を受けてプロ入りを果たすことになる。

 だが、コミュニケーションという視点から振り返ると、チームをうまくまとめられたという手ごたえはなかった。石原は自身の大学時代についても、厳しい評価を下している。

【相手の気分を悪くさせたくない」「反発を買いたくない」「嫌われたくない」と思うようになり、争いの火種を起こさないよう立ち回ることばかりを考えていた。】

【良くも悪くも大人になってしまい、腹を割って話すことができなくなってしまっていた。】

 このような石原の性格は、プロ入り数年後まで続いた。

 プロ2年目の2003年。石原は一軍に定着すると徐々にスタメン出場を増やし、116試合に出場してレギュラー捕手への足がかりとなるシーズンとなった。だが、練習はコーチの課したメニューをこなすが精一杯だったし、試合ではベンチから指示に従うことが多かった。

 もちろん、投手陣には自分から歩み寄ってコミュニケーションを図る努力はしていた。とはいえ、まだまだ形だけで本当の意味ではできていなかった。