◆マーティー・ブラウン監督との対話が転機に

 そんな状況が続いた石原のプロ生活が変化したのは、2006年のこと。この年からマーティー・ブラウンがカープの監督に就任した。

 ブラウン監督は、初めての選手全員を集めてミーティングを開いたとき、「俺の(心の)ドアはいつでも開いている。いつでも来いよ。ウエルカムだ」と話したのだ。

 ところが、石原はこのブラウン監督のアクションに対して、むしろ戸惑った。

【学生の頃から染みついている“監督と選手のコミュニケーションの距離感” というのは、立場の違いから大きな差があるものだ。そもそも日本の野球界、もっと言うとスポーツ界は、選手が監督に対して気軽に直接対話することが常識ではない風潮もある。これは、ほとんどの選手がそう感じているのではないだろうか。そう考えると、僕はその先入観をすぐに崩すことなどできなかった。】

 石原の高校以降の環境を考えれば、致し方なかったのかもしれない。カープでも、最初の監督は“ミスター赤ヘル”こと山本浩二で、気軽に話ができるような関係ではなかった。

 また、「結果を残せば、ずっと試合に出られる」という考えだった石原にとって、先発投手との相性でバッテリーを組み替えるブラウン監督の起用方法もしっくりこなかった。

 監督室に行きあぐねたまま、釈然としない日々が続いていく。

 そんな石原の背中を押してくれたのは、一軍に定着して以来、兄貴的存在として面倒をみてくれていた新井貴浩だった。一緒に食事をしていた際、自分の不甲斐なさや、釈然としない複雑な心境が極まってしまい、思わず涙ぐんでしまった石原に、新井はこう助言する。 

「お前の気持ちとマーティーの気持ちは全然違うよ。絶対マーティーに自分の気持ちを伝えたほうがいい」

 新井はすでにブラウン監督のもとへ行き、カープや野球に対する考え方などについて話し、良好な関係を築いていた。

 新井の助言を受け、数日後、石原は勇気を振り絞って監督室に入った。そこでついに思いの丈をぶつけ、ブラウン監督から起用法についての考え方について、直接、話を聞くことができた。

「もうちょっと素直になっていい。肩肘を張らずにコミュニケーションをしていこう。絶対にもっと良くなる。練習も一緒に付き合うよ」

「石原が考えていることはよく分かった。これからは何か思ったことがあったら、ちゃんと話しに来てくれよ」

 時間にすると、それほど長い話し合いではない。だが、この対話をきっかけに、石原からブラウン監督に対するわだかまりはすべて消え去った。

 それだけではない。石原は以後、少しずつ人と積極的なコミュニケーションをとるようになっていく。

 “勇気を出して一歩踏み出した”ことが、その後の石原の野球人生を変える一番の転機となっていくのである。

(vol.2に続く)

◆著者プロフィール
キビタキビオ
1971年生まれ、東京都出身。2003年に『野球小僧』(白夜書房)にて、野球のプレーをストップウオッチで計測・分析する「炎のストップウオッチャー」でライターデビュー。同誌の編集部員となり約9年務めたあと、2012年春からフリーとなり、雑誌記事の取材・執筆や書籍の編集協力・構成等に携わる。『野球人生を変えたたった一つの勇気~18・44mのその先に』(石原慶幸/サンフィールド)では構成を担当。『球辞苑』(NHKーBS)などのテレビ番組やイベントにも出演する。

◆書籍紹介
石原慶幸著『野球人生を変えた たった1つの勇気〜18.44mのその先に〜』(サンフィールド)
元広島東洋カープ・石原慶幸さん初の著書。野球を始めた幼少期から、高校・大学時代、そして広島東洋カープでプレーした19年間を軸に、捕手として生きてきた“石原氏独自のコミュニケーション”をコンセプトとした1冊。野球観を変える転機となったマーティー・ブラウン監督との対話、カープ低迷期の苦悩からリーグ3連覇までの舞台裏、さらに石原氏のキャリアで大きな影響を与えた黒田博樹氏、新井貴浩氏との秘蔵エピソードなど、これまで明かされることのなかった石原氏の思いも注目。