カープの捕手として19年間活躍し、2016年からリーグ3連覇にも大きく貢献した石原慶幸氏。本稿では、石原氏初の著書『野球人生を変えた たった1つの勇気〜18.44mのその先に〜』の構成を担当したスポーツライター・キビタキビオ氏が、改めて石原が歩んできた野球人生と共に、同氏独自の“コミュニケーション術”に迫っていく。

県立岐阜商高-東北福祉大と野球名門校を経て、カープ入りした石原慶幸氏。

◆揉め事を避けていた学生時代

 広島東洋カープ一筋19年。2020年のシーズン限りで現役生活から身を引いた石原慶幸が歩んできた道のりは、21世紀に入ってからのカープが長い低迷期を脱してセ・リーグ3連覇の栄冠をつかむ過程とほぼリンクしている。

 石原の中で、若い頃から大きく変化したのは、体力や技術もさることながら、とりわけコミュニケーションのとり方が顕著だった。

 岐阜県安八郡墨俣町(現・大垣市)に3人兄弟の末っ子として生まれ育った石原は、小学4年になると地元の少年野球チームに入団。ほどなく捕手になった。

 その後、中学の軟式野球部でプレー。そこまでは“エンジョイベースボール”を謳歌したが、高校は県下の強豪校である県立岐阜商高へ進学する。石原にとって、本格的に厳しい世界での野球生活の始まりだった。

 練習が大変だったのはもちろんのこと、熱血漢の森川豊監督から練習試合で1安打完封勝利を収めた直後に、「お前のせいだ!」「よく考えろ!」と叱責されたこともあった。

 そうした厳しい環境の中でも、県岐阜商高は全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)にレギュラー捕手として2度出場。同期とは仲も良く、もちろん楽しい思い出もあった。森川監督からの厳しい指導も、後々思い返すと学ぶところが多かったと感じている。

 だが、当時の石原のコミュニケーションのとりかたについては、以下のように振り返っている。

【今思えば高校時代は、後々僕がプロで培っていくコミュニケーションのとり方とは逆行していたところがあった。自分の意思を伝えるための“一歩踏み出す勇気”は、むしろ引っ込めてしまい、どちらかというと、“もめごとを避けて黙って従う”ということが僕の流儀というか、性格の一部となってしまっていた。】