◆高校時代は速球派投手として活躍

かつて前田智徳が背負った背番号「51」が与えられるなど、球団の期待も高かった。

─今回はルーキーインタビューなので、鈴木誠也選手の野球人生をお伺いしたいと思います。まず、野球を始めたきっかけを聞かせてください。

「祖父が野球好きで3歳から野球みたいな遊びはやっていました。本格的に野球を始めたのは小学校2年生の頃で、地域のクラブチームに入ったときです」

─初めてユニホームを着たときのことは覚えていますか?

「ユニホームを着れば汚れてもいいと思っていました(笑)。とにかく動くことが好きで、ボールを捕って投げて打ってということが楽しかったですね」

─最初のポジションはどこですか?

「父親がショートが好きだったので最初はショートで、それから小学生時代はずっとショートを守っていましたが、高学年になってからはピッチャーもやっていました」

─小学生時代の思い出はありますか?

「ずっと背が小さかったのですが、高学年になって急に伸びて170センチくらいになったんです。成長痛でひざが痛くて……一時期野球ができなくなったことを覚えています(苦笑)。あまり強くないチームでしたが、ずっと楽しく野球をやっていたなという感じです」

─その頃憧れた選手はいましたか?

「ショートを守っていたので好きな選手は当時巨人の二岡智宏選手でした。逆方向にホームランを打つところも好きでしたし、父親には『あんな選手になれ』と言われていたのも好きだった理由ですね」

─荒川シニアの中学時代もショートを中心に守っていたのですか?

「いえ、中学時代はファーストとピッチャーで、4番を打たせてもらっていました。全国大会にも行けましたし、楽しく野球をやらせてもらっていました」

─高校は二松学舎大付高に進学されましたが、どんな経緯だったのですか?

「当時、東京は帝京高が強かったのですが、僕は甲子園常連校には行きたくなかったんです。両親には『好きな高校へ行きなさい』と言われていたので、『強い高校を倒して甲子園を狙えるかもしれない』という理由で二松学舎大付高を選びました」

─1年生の頃からレギュラーとして試合に出ていたそうですが、高校野球の世界に入ってどんな心境でしたか?

「すぐに試合に出られるという気持ちは全くありませんでしたし、高校生の投手はすごいんだろうなと思っていました。でも、実際に対戦してみるとあまり中学時代と変わらないなという印象があって、案外打つこともできました」

─高校時代は速球派投手として活躍されていましたね。

「1年生の秋から本格的に投手として投げ始めました。当初は怖いもの知らずで『投げてもバットに当てられる気がしない』という気持ちで強気でしたね。ただ、コントロールを意識するようになってから悩むことも多くなりました(苦笑)」

─一方打撃では、高校通算43本塁打と長打力を発揮されていました。

「どうしてそんなに打てたのか自分でも分かりません(苦笑)。正直、打つよりも、投手として打者と対戦することがすごく好きだったんです。打撃は『投手のおまけ』という感覚で楽しんでやっていました」

─「自分は投手だ」という意識が強かったのですね。

「常に自分がエースだという気持ちを持っていましたし、『俺が投げて勝つんだ』と思っていました」

─その頃はご自身で、どんな投手だと思っていたのですか?

「真っすぐで押して三振を取りたいと、いつも思いながら投げていました。球速もあまり意識はせず、とにかく三振を取ることを考えていたと思います」

─では練習も打撃よりも、投球に比重を置いていたのですか?

「毎日投げ込みと、走り込みを繰り返していました。打撃は投手の練習が終わってから、球を飛ばすことが楽しいという感覚でやっていました。だからこそ打撃で結果が残ったのかもしれないですね」

─高校時代は2年夏の都大会4強が最高成績でした。甲子園に行けなかった悔しさは強いのではないでしょうか。

「もちろん悔しかったです。投手としての考え方をもっと勉強していれば、もう少し何かができたのではないかと終わってみて思いました。負けた日は実感がなくて涙も出なくて、ボーっとしていました」

─高校時代の一番の思い出は?

「2年生のときに国士館高と対戦したときにホームランを打ったのですが、今までにない感触だったんです。この試合は勝つこともできましたし、一番印象に残っていることですね」

◆2013年から2020年に行った鈴木誠也のインタビューは、広島アスリートマガジン2020特別増刊号「鈴木誠也 全インタビュー集」で公開中。