◆公式戦171試合連続フル出場を記録した鉄人MF

 アトランタ五輪翌年にサンフレッチェでも17番となった路木は、この年のオフに横浜マリノス(現F・マリノス)に移籍。1998年に17番を受け継いだのが、渋谷幕張高(千葉)から加入して3年目のMF服部公太だった。もっとも、当初から左サイドで活躍していたわけではなく、本人は次のように振り返る。

 「プロ入りした頃はポジションが定まっていませんでした。高校時代は、どちらかといえばゲームメーカーでしたからね。でも1997年に(エディー・)トムソン監督から『左サイドでやってみろ』と言われたんです。初めての経験でしたが、そこで生きていくしかない、と思って始めました。いまとなってはエディーに感謝しかありません」

 コンバートは大当たりだった。豊富な運動量と左足からの正確なクロスという、路木同様の持ち味を遺憾なく発揮してレギュラーに定着。地歩を固めていく道のりには、周囲で支えてくれた先輩の存在が大きかったと語る。

 「攻撃は何とかなるのですが、苦労したのは守備面。でも自分の後ろにいた上村健一さんや、小島光顕さんといった守備のスペシャリストに、いろいろ教えてもらいながら成長することができました」

 背番号17は「特に希望したわけではなく、クラブから言われただけ」だったという。だが左サイドで活躍を続けるうちに愛着が湧いてきて、メールアドレスには『17』が含まれているそうだ。

 歴代の監督から信頼され、2002年から2007年までは公式戦171試合連続フル出場を記録するなど、ケガに強く安定したパフォーマンスを続ける『鉄人』としても知られた。サンフレッチェで16年間プレーし、2011年限りで契約満了となってJ2のファジアーノ岡山に移籍。翌2012年にサンフレッチェがJ1初優勝を成し遂げ、悲運の服部はタイトルとは縁がないまま、同年限りで現役を引退したが、クラブの歴史を語る上で欠かせない選手の一人であることは間違いない。

 引退後はファジアーノやサンフレッチェのアカデミー(育成年代のチーム)でコーチや監督を務めたのち、20年から岡山の創志学園高でコーチを務めている。自らもプロの礎を築いた高校サッカーの現場で、次代を担う人材の育成に力を注いでいる。

 服部の引退後、2013年に17番を受け継いだ韓国籍のDFパク・ヒョンジンも、左利きの左サイドの選手。韓国の大学から直接Jリーグに加入し、背番号17はクラブの期待の表れでもあったが、レギュラーに定着することはできず、2014年限りで退団した。2016年はMF野津田岳人が17番となったものの、開幕直後に期限付き移籍したため、サンフレッチェではほとんどプレーしていない。