新たな学びを与えてくれたメジャーの現場

 僕は選手の頃から野球は全部アメリカから入ってきていると考えていたので、その時間はとても有意義だった。現在もユニホームの着こなし方や、セットアッパーやクローザーといった野球用語など、日本のプロ野球はメジャーリーグから色濃く影響を受けている。日本の“野球”の源流である“ベースボール”に直に触れることは本当に貴重な勉強となった。

 その経験を「監督の準備をしていた」と言われたら否定することはできない。確かにその時期、僕は解説の仕事もやっていたが、やはり野球はグラウンドの上じゃないとわからないことが多いという気持ちが強くあった。解説者としてスーツを着て野球を見ていては気づかない選手の仕草や目つき、練習態度……グラウンドの上にはそういう有益な情報がゴロゴロ転がっている。知識だけではフォローできない、現場レベルの野球感覚を僕はアメリカで磨いていたような気がする。

 アメリカでの日々は、僕に新たな学びを与えてくれたが、それと同時に気持ちをリフレッシュさせてくれた。日本にいると、「カープで2000本安打を打った野村さんですよね」などと言われたりもするが、海を渡ったらそんなことは誰も知らない。どこにでもいそうな、ただの東洋人でしかない。

 僕にはそれが気持ちよかった。過去の栄光や勲章などまったく通用しないところでゼロから始められることがすがすがしかった。マイナーのコーチ、メジャーのコーチ、そして監督……現地で接する人たちに喜んでもらうためには、まずは自分を表現しなければならない。肩書きなんてないのだから、言葉や行動で僕のことをわかってもらわないといけない。

 1年目は朝7時に練習場に行って、7時半から手伝いスタート。選手の練習は9時半開始。その間、マイナーのコーチたちと通訳なしで会話をしたり、冗談を交わしたり、守備理論や打撃理論について論議を交わした。手加減なしのメジャーリーグのバックステージだ。僕はそんな毎日が楽しくて仕方なかった。実際、そのときの経験は監督になってからさまざまな場面で役立った。

●野村謙二郎 のむらけんじろう
1966年9月19日生、大分県出身。88年ドラフト1位でカープに入団。プロ2年目にショートの定位置を奪い盗塁王を獲得。翌91年は初の3割をマークし、2年連続盗塁王に輝くなどリーグ優勝に大きく貢献した。95年には打率.315、32本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。2000安打を達成した05年限りで引退。10年にカープの一軍監督に就任し、積極的に若手を起用13年にはチームを初のクライマックス・シリーズに導いた。14年限りで監督を退任。現在はプロ野球解説者として活躍中。