『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

4年ぶりにサンフレッチェに復帰した塩谷司選手。

◆当時のJリーグの爆発的な人気を象徴するような驚異的な一撃

 この連載で何度か書いているように、Jリーグの背番号は1993年の創設当初、現在のように選手ごとに固定されておらず、試合ごとに登録メンバー16人が『1』から『16』をつけていた(先発の11人が『1』から『11』、控えの5人が『12』から『16』をつける)。

 サッカーの背番号は通常、GKから順にDF、MF、FWとつけていくので、今回取り上げる3番はサンフレッチェでも代々、主にDFがつけてきた。

 1993年5月16日、サンフレッチェのJリーグ最初の試合で3番をつけたのは、DF松田浩だった。屈強な体格を武器とするセンターバック(CB)として最終ラインを支えたが、むしろ印象深いのは歴史的なスーパーゴール。1993年5月22日のヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)戦で決めた40メートル近いロングシュートは、現在でも映像で取り上げられることがあり、当時のJリーグの爆発的な人気を象徴するような驚異的な一撃だった。

 シーズンごとに各選手が個別の背番号をつけるようになった1997年から2年間は、DF柳本啓成が3番だった。1993年のJリーグ開幕当初は右サイドバック(SB)で、同じポジションで日本代表でもレギュラーを務めた時期があるが、運動能力の高さを生かしてCBでも起用された。ここからサンフレッチェの3番はCBだけでなく、SBの選手もつける番号となっていく。

 1999年から3番をつけたのは、右SBやアウトサイド(ウイングバック)でプレーしたDF沢田謙太郎。前年まで所属していた柏レイソルでの背番号は2番で、そちらの方がSBの番号なのだが、本人いわく「クラブから『3番はどうか』と言われて、特にこだわりもなかったので『それでいいです』と答えた」とのこと。2003年にサンフレッチェで現役を引退するまで3番を背負い、引退後はサンフレッチェ広島ユースやジュニアユースでコーチや監督を務めたのち、現在はトップチームのヘッドコーチを務めている(城福浩監督が退任したことで、残りシーズンは沢田が監督として指揮を執ることが10月26日に発表された)。

 2004年から3年間、日本が初めて出場した1998年フランス・ワールドカップにCBとして出場したDF小村徳男が3番を背負うと、DF吉弘充志、DF西河翔吾、韓国籍のDFビョン・ジュンボンなど、しばらくCBの番号となった。しかし2017年から2年間は、左右のSBやアウトサイドでプレーするDF高橋壮也が3番を任され、翌2019年も右サイドを主戦場とするスウェーデン国籍のDFエミル・サロモンソンが3番をつけた。

 2020年からDF井林章が3番となり、再びCBの番号となっていたが、シーズン途中の今年6月に清水エスパルスに完全移籍。空き番号となった矢先に、別の選手がつけることになった。10月に完全移籍での加入が発表されたDF塩谷司。2012年途中に水戸ホーリーホックから加入し、同年と2013年のJリーグ連覇、2015年の3回目の優勝にも貢献したCBだ。

 前回在籍時は33番をつけていた。水戸から加入するときにクラブから指定されたもので、2017年途中に完全移籍したUAE(アラブ首長国連邦)のアル・アインでも33番だった。今回の3番も前回加入時と同じくクラブが決めたとのことで、加入会見では「個人的には違和感があり、変な感じがする」と心境を明かしている。

 もっとも本人は「あまりこだわりはないし、背番号でサッカーをするわけじゃない。3番が似合うような選手になりたいです」と語り、4年ぶりに復帰したサンフレッチェでの活躍を期している。アル・アイン時代の主要ポジションはSBだったそうで、CBやボランチでもプレーしており、かつては日本代表でもボランチで起用されている。最新のサンフレッチェの背番号3は、どのポジションで輝きを放つことになるのだろうか。