いろんな問題を時代のせいにしたくない

 多くの人が歩むのは整備された山道を進んでいく行程である。しかし僕だけは断崖絶壁を登らされ、それが当たり前だと思い込んでいたのだ。そんな状況にもかかわらず「こっちにこいよ!」と崖の方に誘ったところで、誰もついてこないのは当然だ。

 その新しい考え方に慣れるまでは、本当に苦労した。それは考え方を変えるだけでなく、自分の哲学を曲げることと同じだった。正確に言えば曲げるわけではないが、現実に合わせていったんフタをするという感覚だった。

 そんなふうに僕がこれまでの経験則を捨ててまで新たなやり方にトライしたのは、何をおいても結果を出したい、チームを強くしたいという気持ちがあったからだ。チームを強くするには若手に伸びてもらわなければならない、そのためには彼らの能力を引き出さなければならない、どうやったら彼らの気持ちを高められるか、僕たちの言葉に反応してもらえるか……それを突き詰めていくと自然とそうなった。現実の勝利のためには、僕の理想なんてちっぽけなものでしかなかったのだ。

 つまりこの時期、僕が学んだのは、人は変われるということだった。どんな状況下でも、どんな年齢でも、人間は変わっていくことができる―もしかするとそれは僕が5年間の監督人生で学んだ一番大きな財産かもしれない。

 僕が、自分が経験してきたいわゆる“昭和的な指導法”を捨て、観察と対話を重視する今のやり方にシフトしたのは、「時代が変わったから」と見る向きも多いだろう。だけど個人的にはそこで〝時代〟という言葉を持ち出すことはあまり好きではない。僕は若い頃、先輩から「わしらの頃とは時代が違うけえのぉ」と言われることがすごくイヤだった。だから僕もそれを時代のせいにはしたくないのだ。

 ただ僕は“時代”という言葉の代わりに“順番”という言葉を使う。結局意味は同じかもしれないが、僕はすべては順番なのだと考えている。年齢順。ベテランの金田さん、長嶋茂雄さん、(山本)浩二さん……そんな先輩たちがいて、僕がいて、今の若い選手たちがいる。同じことを順繰りに繰り返しているだけであり、たまたまそういう順番になっているのだと、そんなふうに思うのだ。

 “時代”とともに、よく使われるのが“世代”という言葉だろう。今で言えば“ゆとり世代”とか。僕も大谷翔平(日本ハム)のインタビューなんて見ると、良い意味で現代っ子だなと強く感じる。ああいう振る舞いは、今は普通のことでテレビやインターネットなどの情報に大量に触れてきた子じゃないとできないものだ。