10月20日に開催される、『2022年プロ野球ドラフト会議』。各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。

 カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、広島アスリートマガジン創刊当時(2003年)の人気連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載。カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語った、レジェンドたちの獲得秘話とは?

 今回は、『投手王国』と呼ばれた1980年代のカープ黄金期に、先発ローテーションの一角として活躍した左腕・川口和久氏獲得の裏側をご紹介する。

プロ通算139勝を挙げた左腕・川口和久氏。

◆ストレートに球威はあるが、コントロールに不安……

 私が川口を初めて見たのは、彼が高校1年生のときでした。

 「鳥取にすごく球が速い投手が一人いる」。そういう情報を手にした私は、すぐに鳥取に行ったことを覚えています。そして、川口と出会ったのです。

 高校に入学したばかりの川口は、たしかに球が速く、上級生にも決して退けをとらないピッチングをしていました。加えて長身だったこともあり、球に角度がついていたため、バッターはかなり打ちにくかったと思います。

「1年生でこれくらいの球を投げられるなら大したものだ。これは面白い投手」

 川口の球を初めて見たとき、このような印象を持ちました。ただ、コントロールに目を向けるとひどいありさまでした。例えば、キャッチャーが真ん中に構えていても、そこに行く球は10球のうち2~3球程度。ひどいときは1球も行くことはありませんでした。それを見たときは「これは大変だな」という思いを抱かざるを得ませんでした。

 それから学年が上がるたびに、何度か川口を見に行きました。徐々に体が大きくなっていったことで、最大の武器であるストレートの球速は、見るたびに速くなっていました。スピードガンで計ったわけではありませんが、私の感覚では140km以上は出ていたと思います。

 なぜ川口の球速が上がったのか。

 それは、持って生まれた天性のものももちろんあったでしょう。しかし、それと同時に、野球部の橋本謙監督が、近くにあった鳥取砂丘やグラウンドで毎日毎日ランニングをさせたことが大きな要因だと思います。ピッチャーにとって下半身の強さというものは絶対に必要なものですから、その強化を怠らなかったことで、川口の球速はグンと増していったのでしょう。しかし、課題としていたコントロールは相変わらずで、私が見た試合で、四球を与えなかった試合はありませんでした。

 コントロールは不安でしたが、彼の投げる球の威力は、それを上回る魅力を持っていました。そのため、カープは1977年のドラフトで、川口を指名する方向に動いたのです。しかし、川口の反応がよくありませんでした。どれだけ粘り強く声をかけても「プロでやっていく体力がまだ備わっていない。自信がない」と言い、指名を許可してくれることはありませんでした。