10月20日に開催される、『2022年プロ野球ドラフト会議』。各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。

 カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』(2003年初出)を再編集してお送りする。

 今回取り上げるのは、今回は1982年に球団初の新人王に輝き、打者と真っ向勝負する投球スタイルから“炎のストッパー”と呼ばれた津田恒実氏を取り上げる。

◆紆余曲折を経て入団した後の “炎のストッパー”

旧広島市民球場に設置された『津田プレート』は、本拠地移転に伴いマツダスタジアムに移設された。

 打者に「アウトコース低めの直球は10センチは浮き上がる感じ」と言わしめ、アナウンサーに「スピード違反」という名実況を生ませた投手。それが津田恒実です。

 私が南陽工高の津田を見て感じた魅力は、フォームとコントロールです。津田といえば直球かもしれませんが、私の場合その直球を狙ったところに投げられるコントロールに魅力を感じました。また独特の投げ終えたあとに飛び上がるような動きは当時から備わっていましたね。

 そんな津田は卒業後、地元の協和発酵に就職します。甲子園を沸かせた投手ですから、9球団くらいが彼の獲得に名乗りを挙げましたが、ドラフト当日、津田の名前を記入したチームは一つもありませんでした。

 当時、南陽工高から毎年10数名の卒業生が協和発酵に就職していました。そしてその中に津田の名前もあったのです。私は何度も学校を訪れ、「もったいないじゃないですか。カープはどうしても津田君を指名したいんです」と担任の先生や野球部の監督などに熱意を伝えました。しかし、「本人だけの考えではどうにも……」と指名を許してくれることはありませんでした。

 それでも津田の才能に惚れ込んだ私は、どうしても諦めきれず他球団が手を引いた後もドラフト直前までなんとかして指名できないものかといろいろと考えました。しかし、当時のスカウト部長だった木庭(教)さんから、「事情が事情だけに今回は指名を見送ろう」という言葉をかけられ、3年後に期待したのです。

 カープに入団後の津田を見て、私はそのギャップにとても驚いたことを覚えています。それは投球ではなく、高校時代は物静かで黙っていた印象しかなかった津田が、常に笑顔で誰とでも話をしている姿にです。

 あるとき津田に「南陽のときは一つもものを言わなかったけど、今はようしゃべるな」と声を掛けると、照れくさそうに頭をかいていました。

 「あいつがグラウンドに入るだけで、周囲が明るくなった」。

 古葉監督は津田についてこう言ったこともありました。本当の津田は明るく誰にも好かれる選手だったのです。しかし、高校3年時は進路のことでいろいろと苦労をしたので、次第に口数が減り自分の殻に閉じこもってしまったのかもしれません。

1986年、リーグ優勝を決め捕手・達川光男と抱き合う津田。

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

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