10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の公表通り苫小牧中央の斉藤優汰を1位で指名。支配下で指名した7選手中4選手が“投手”というドラフトとなった。

 ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』を再編集してお届けする。

 ここでは、1997年ドラフト3位で入団した林昌樹の入団秘話をお送りする。小林幹英、倉義和らと同期入団。サイドスローに転向して以降中継ぎとして頭角を現し、2000年代のブルペンを支えた林はいかにして発掘されたのか。備前氏の証言から紐解いていく。

2006年からは2年連続で50試合以上に登板。フル回転でカープ投手陣を支えた。

◆2度目に見たときの成長度が指名につながった

 私が始めて林を見たのは彼が高校3年生のときです。春頃、名古屋で行われていた練習試合を見に行ったのを覚えています。当時はスリークォーターよりも少し上から腕が出てくるようなオーソドックスなフォームでストレートとスライダー・チェンジアップ・シュートの4種類を投げていたように思います。

 その中で特に良かったのがスライダーです。打者の手元で鋭く曲がるそれは、なかなか良いキレをしていました。しかし、ストレートの球速と制球力は今ひとつで「これくらいの投手ならどこにでもいる。このままではドラフトで指名するのは少し難しい」という評価をしたのが正直なところです。

 しかし2度目に見た夏の甲子園予選の林は、春よりもストレートの球速が上がり制球力もかなりついていました。春以降、筋力トレーニングなどを行い投球のレベルアップを図ったのでしょう。もともとスライダーはいいものを持っていました。それに力のあるストレートが加わったことで、スライダーがこれまで以上に活きるようになり投球の幅が広がっていました。その投球を見てカープは林を指名することを決めたのです。渡辺スカウトからは「性格的に非常におとなしいが、礼儀正しい選手」と聞いていました。

 また林は184センチの長身ということで腕が非常に長く、打者に近いところで球を放すことができるという特徴を持っていました。より近いところで放すことができれば打者は球速以上に速く感じます。そういうものも林の魅力の一つでした。ただ、身長がある分どうしても身体の線が細く下半身が弱いという印象がありました。ですからプロ入り後まずは投手として最も重要な下半身の強化をしっかりと行ってほしいと思っていました。

 林は8年間カープでプレーしてきましたが、その中で最も大きな出来事は3年目の終わり頃にフォームをサイドスローに変更したことでしょう。高校卒業後、プロ入り3年間は主に下半身の強化に取り組みながら、しかしわずかに1勝。「何かを変えなければいけない」と思っていたのかもしれません。

 そういうときに清川栄治二軍投手コーチ(現西武二軍コーチ)にサイドスロー転向を勧められたのです。林は1週間以上悩み続けたと聞きました。投手にとってこれまで築き上げてきたフォームを変更する。つまりゼロから始めるということはとても勇気がいることです。ですから、それくらい時間がかかっても仕方がないと思います。

 変更後は、秋季キャンプで清川コーチと共に200球の投げ込みやネットピッチングなどで身体にフォームを覚えさせる日々が続きました。サイドスローというのは身体を横にひねるため背筋と胸の筋肉がより強くなければなりません。加えて膝の柔軟性も必要となります。

  そのため投げ始めた当初はこれまで痛くなったことがないところが筋肉痛になったり体重が減ったりと、かなり苦しい思いをしたと思います。しかし、フォームを変更したことは良かったと私は思います。プロの世界で成功するためには他の投手と違うものを何か一つでも持っていることが重要です。当時、カープの中で横から投げていた投手は小山田くらいだったことを考えると、サイドスローに転向し他の投手にはないものを手に入れたことはとてもよかったと思います。

 そして、そのフォームで初勝利を挙げたのは入団6年目の2003年でした。シーズン終盤の10月12日のヤクルト戦に9回表2アウトから登板した林は、古田を得意のパーム1球でサードゴロ。その裏、岡上が同点本塁打を放ち満塁となったあと、高津のワイルドピッチで最後にアウトを奪った林に白星が付いたのです。

 この年は開幕から一軍登録され大事な場面で登板し結果を残していました。しかし、1カ月ほどしてファーム行きを宣告され悔しい思いをしました。周囲からは1球で初勝利を手にしたため「ラッキー」などと言われていましたが、私はこれまでの努力が実った瞬間だと思いました。

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

鈴木誠也、森下暢仁、西川龍馬・・・ベテランスカウトが語る、獲得秘話がつまった一冊! 眼力 カープスカウト 時代を貫く”惚れる力” 好評発売中。
広島アスリートマガジン11月号は、新井貴浩新監督の軌跡を振り返る1冊! 広島を熱くする男が帰ってきた!新井貴浩新監督誕生 月刊誌でしか見ることのできないビジュアルも満載です。