カープの長い歴史の中で、これまでに18人の指揮官がチームを率いてきた。人を育て、チームを一つにし、そして、それぞれの哲学をもとに大きな目標に向かって進んでいく。

 歴代の名監督の下で苦難を共にしたカープOBが語るその人物像と、そこから垣間見える人材・チーム育成のヒントを探る。

「監督の仕事は選手を見続けること」それが古葉監督の人の育て方だった。

今もなお、名将と語り継がれる古葉竹識監督。投手王国・機動力野球といった伝統のスタイルを築き、黄金期をひた走った。多くを語らず、ただ選手を見守る指揮官の下で、野球界に大きく羽ばたいた山崎隆造氏が語る。(広島アスリートマガジン2018年4月号より)

 私がプロ入りした当初の監督が古葉竹識監督でしたが、本格的に古葉監督の元でプレーしたのはプロ2年目の1978年です。右打ちだった私は、プロに入ってからスイッチヒッターに挑戦することになりましたが、その進言をしてくれたのが古葉監督でした。

 すんなりと左打席の感覚をつかんだ私はファームで結果を残すことができ、プロ3年目の1979年夏に一軍昇格できました。今でも記憶しているのは、一軍に昇格したばかりの私を巨人戦でスタメン起用していただき、プロ初安打。全く実績がない私をすぐにスタメンで起用してくれたことは、今思い返してみてもすごいことだと感じます。

 1979年、1980年にかけて2年連続日本一を達成しましたが、この時期に古葉野球を本格的に体感し始めました。当時の古葉さんは『口数が少ない監督』という印象でしたが、若かった私はよく怒られました(苦笑)。古葉さんは私に対し、まず『目で物を言う』といった感じでしたし、そんな古葉さんに威厳を感じていました。

 普段からしっかりと一人ひとりの選手を見ている監督でしたので、私たちには練習中も試合中も絶対に気を抜けない雰囲気が常にありました。後に聞いた話では、『監督というのは選手をずっと見続けるのが仕事だ』と仰っていたようです。選手を見続けることで、ちょっとした仕草からも調子を見極めていたのだと思います。

 また古葉さんからは、基本の大事さを教わりました。『プレー中は絶対に球から目を離すな』とよく言われたことが印象深いですね。 

 1983年から私はレギュラーとして起用され、古葉監督が退任される1985年まで連続試合出場を続けました。長いシーズン、必ず痛みを抱えてプレーする時期はあります。ですが、『レギュラーとは体調が万全でなくとも、試合に出続けること』というものを言葉ではなく、起用法から教えられました。

 長い間、トレーナーとして大変にお世話になった福永(富雄)さんから聞いた話では、私が肉離れをしていた時、古葉さんは「山崎が万全でなくとも、70~80%の力を出せるのであればチームのためになる」と仰っていたようです。当時、私はポジション確保に必死でしたので、後にそれを聞いた時、初めて古葉さんから信頼されていたんだと、実感することができました。

 古葉さんがいなければ私はスイッチヒッターに転向していませんし、選手生命も短く終わっていたでしょう。私の野球人生においての恩師です。古葉さんの座右の銘に『耐えて勝つ』とありますが、正にその通りで、髙橋慶彦さん、私にしても当時実績のない若手を起用するには相当の我慢が必要であったと思います。

 今だに古葉さんに会えば背筋が伸びますし、何年経っても関係性は変わりません。いわば、〝昔ながらの厳格な親父と息子〟のような関係性でしょうね。

 

●山崎隆造/やまさきりゅうぞう
1958年4月15日生、広島県出身。1976年ドラフト1位で広島入団。高校時代からショートとして活躍していたが、1978年からは髙橋慶彦についでスイッチヒッターに転向し、入団5年目まではセカンドとして出場機会を増やす。1981年に右膝の故障で1年を棒に振るが、1982年に復活し、1983年に外野のレギュラーに定着。1983年から3年連続3割を達成するなど、髙橋慶彦との1、2番コンビとして、古葉監督の元でカープ機動力を体現。5度のリーグ優勝に貢献するなど、カープ黄金時代の主力として活躍した。引退後は広島コーチ、二軍監督を歴任。

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